20220517

日記21

3blue1brownの動画を見る。YouTubeにあるよくできた数学の動画のなかでも随一の出来だと思う。現在見れる動画は全部見てしまった。「最も難しいテストのもっとも難しい問題」にもっとも感心させられた。


1.まずは難しくて複雑な問題を簡単にして考えてみて、

2.そのときに使った補助線の引き方(=解決方法)を取り出し、

3.もとの問題の解決に使う


1でより簡単な問題を見つけるのがまず簡単ではない。簡単にするにしてももとの問題をある程度引き継いでいて類似の問題であると判断するのがすでに難しい。問題を解く前の「問題を把握する」ができていなければならない。

2で取り組む比較的簡単な問題に対する解法を、解法が出て解決できたと満足するのではなく、べつの表現に置き換えてみようとするのが問題全体を通してもっとも鮮やかな部分だといえる。問題の解決が目的ではなく手段になっていること、上位の問題を持っているからこそ解決で終わらすにエクストラステージになることができる。一度解決したからといって通り過ぎていてはたどり着けない。解決済みの問題でも「べつの問題」を持った状態で考え直せばそこに鍵があるというのは示唆に富む。答えではなくそこへ至るまでのプロセスを発見することが問題解決の役に立つということをきれいに証明していた。

3考え方の観点からすれば2ですでに華々しいパートが終わっていてあとはフォロースルーのようなものだが、数学の言語で記述するためには訓練が必要だという意味のことをさらっと言っていてかえって重みがあった。それにハイライトでスーパープレーを見ているからゴールが決まるのを知っていてそれであのプレーシーンがすごいとか言っているがゴールという事実がすごい(=難しい)のには違いない。

1,2,3がわかりやすく直感的に説明されているのを見るのにはかなりの価値があり、非常にお得だ。

それから新しい動画がいくつか発表されたが途中から見なくなってしまった。難しくて理解できないところだらけになってしまったからだ。それまでも難しいながら食らいついていこうとしていたが、上がっている動画の全編を見通して一個も理解できなかったときに、もう一度再生する気力がなくなってしまった。


以下のGCPクエストを完了

・Cloud Architecture

・Deploy and Manage Cloud Environments with Google Cloud

やりながらこのクエストをこなすことに意味があるのか疑問だったが、おかげさまで今はもうその疑問を持っていない。

20220515

日記20

 昨日

ウルトラマンの映画を見に行く。思い切った演出の思い切り具合と特撮を拓いていこうという意思を感じるシーンの連続にいつの間にか引き込まれていって結果すごくワクワクした。たしかにウルトラマンなのに、見たことないウルトラマンの姿が見られたのもよかった。各所での斎藤工と山本耕史の対話も戦っているかのようにスリリングだったこともあって、メフィラス星人とのバトルが一番熱かった。はざまにいるとつらいことが多いと知っていく子供の脳裏に斎藤工のあのセリフが刻み込まれたとしたらそれは正しくヒーローものの理念と意義の体現になる。荒唐無稽な世界のなかで破局を迎えようとするとき、技術者が一度はストロングゼロに逃避しながらもふたたび立ち上がって解決方法を模索するのにもメッセージがある。説教臭い、トリガーになっているのは結局ウルトラマンじゃないのか、という指摘もあってかまわないが、そうやって指摘できる指摘をいくら重ねていってもこれほどワクワクする映画にはならないにちがいない。

はじめてウルトラマンを見たのは幼稚園生の頃だったと記憶しているが、当時はウルトラマンのテレビを見られず、買ってもらったビデオを何度も何度も延々と見ていた。たしかウルトラマンストーリーという映画で、ウルトラマンの活躍がダイジェストでしか見られずに物足りない思いをしたが、飽きることなく何回も見た。あのときのワクワクには及ぶべくもないが、シン・ウルトラマンはあのときの興奮に連なる何かがあったと思う。しかし一方で無かったものもあり、それが怪獣勢力のバルタン星人だった。ウルトラマンをみるときにウルトラマンが見たくて見るのかバルタン星人が見たくて見るのかかなり微妙なぐらいバルタン星人が好きだった。あとは一瞬だけ映る怪獣のアントラーというクワガタのような怪獣が一番のお気に入りで、ほんの少しだけの登場シーンでいつも歓声をあげて喜んでいたのをなんとなく覚えている。それなりの長さがある映画のうち10秒も映る時間がなかった怪獣だったが、そのシーンが近づくにつれて緊張が高まり、登場すると飛び上がるほど嬉しくなって喜ぶというのを本当に飽きることなく繰り返した。


昼ごはんにタレカツ丼を食べる。井の頭公園を散歩する。ドントスターブトゥギャザーをプレイして最大15日間生き延びる。

ドントスターブはサバイバル要素のある牧場物語みたいなゲームですごく面白いのだが、攻略動画を見て情報を先取してしまったことで飽きがきてしまった。自分の力で発見しながら遊べばもっと長く遊べたはずなのでもったいないことをした。

20220513

日記19

早起きして9時に信濃町に着く。駅構内のBECK'Sコーヒーがスタバのようにせせこましくなくていい感じ。モーニングをいただく。

草枕の次に読むのは虞美人草に決める。虞美人草を書いた時の漱石はまだ心も三四郎も門もそれからも道草も行人も書いていない。作を並べるとどんどん書けるようになっていった軌跡がはっきりわかる。通常とちがうのは書けないところから書けるようになっていくのではなく、「書けすぎる」ところから「すぎる」部分が取れて「書ける」ようになっていくところだ。草枕は音読してみるとすごかった。虞美人草もすごいんだろうと思うのでたのしみ。

漱石の小説の軌跡についてあんまりこういうことを言っているのを見聞きしたことがない。ちゃんと検討して書いたら、少なくとも「ある視点」から論じられるのではないか。

GCPのCloud Engineeringを完了。クラウドのエンジニアリングは俺に任せろ。

テアトル新宿に『EUREKA』を見に行く。青山真治は多部未華子主演の『空に住む』しか見ていない。『空に住む』は地面の存在をまったく感じさせないような異色作で、美男子の人物造形に爆笑を喫してしまった以外に見るべきところもない完全な駄作だった。一方、傑作の呼び声が高い『EUREKA』がどうなるのか、期待と不安がちょうど半分ずつで、すごくたのしみ。


↑の草枕が「書けすぎる」というのは表現の幅に制約を設けないということで、漢文も使えば英文も使い、必要以上の装飾をもって遠慮なく文章を飾っていることをいう。これは簡潔に記述することよりもなお無遠慮で、ずんずん進んでいくその印象が書けるという可能態の可能性を強調している。

必要以上の装飾というときの「必要」というのは、ある語感に調律してそのチューニングで書きすすめるという意味で書き手側に必要があるということがいえるので、反対に必要がないということはいえないことになる。ただ調律の段階で読者を限定するようなやや高い場所を選んでいる。その高さを選ぶ必要はあっただろうか。無いような気がする。ただ前期の文章には後期の文章とはちがう読んで面白い語感がしっかりあるのでバリエーションという意味で両方あって良かったと思う。

書かれた文章が装飾を必要としないかといえばまったくそんなことはない。伝達上の必要はそのように記述しないでもかなうとして装飾部分をばっさり切ってしまえば、すべてが台無しになってしまう。

草枕は文章全体がレトリックや修辞であるとも捉えられる。草枕の文章がその意味を伝えるためにはどうしてもあの書き方しかない。それに、過度に装飾を用いない文体のほうに作者の衒いが感じられることもある。衒気があるとか無いとかそんなのには構わないでただ読みやすければそれでいいとする立場もあるかもしれない。その主張に対して言うべきことはない。もしその主張がだんだん幅を利かせて、装飾するのはすべて悪いということになるとすれば、そのときには言い返さなければならない。悪い装飾が悪いのであって、良い装飾は悪くない。むしろ良いのだと。いや、装飾されている時点で良くない、そこに良い悪いの区別はない――とあくまでも強弁されるのであれば、ものの見方がいささか貧相だと言わなければならない。それにそもそも読みやすければそれでいいというのも小説を読むのに適した態度だとは思われない。ほかに頭を働かせるべきことがあるわけでもないのにとにかく読みやすくしてほしいというのは少々吝嗇くさくないだろうか。財布の中身が雀の涙なのであれば話は別だが。(ケチとか財布の中身とか、言わなければならないことでは全然ないと言わなければならない)

『草枕』については、あの書き方が読む側にとってどう感じられるかとはべつの領域で、自然に書かれている作品だと感じられる。これを筆の進む方向に物語が進んでいるということかと言われると、そんな気もするし、旅における移動によってその場所の情景が一旦終わりになるというのをそのまま書いているだけにもみえる。ただその筆が進む速度については早くもなく遅くもなく自然のテンポで進んでいるというのが、自然に書かれているという感想の中身だ。

書くものから内的なリズムが感じられるとそれにはきちんとした理由があるように感じられる。きちんとした理由というのはいちいち理由としてそれを説明しないでもいいようにできているもので、説明を免除されているのがもっともきちんとした理由ということになると思う。すなわち自然だということ。とはいえ自然というのももう昔ほど万能ではないが。



さて、『EUREKA』を見た。東京こと秋彦がとにかく良い。あれこそが映画の良心というものだ。良心などどうだっていいというスタンスの人にとっても秋彦の重要性は説明抜きでわかる。役所広司はどちらかといえば役得のように思う。子供のふたりにセリフを喋らせないことが演出上絶対に必要だからその意味でも秋彦の貢献はでかい。狂言回し的役割とは別に、秋彦自身は揺れながらも世の中的な正しさの側にいてしかも暴力によって排除されるんだからあれで最後に笑うのには喝采をおくりたい。本当にジョーカーの笑い声なんか目じゃない。役所広司が悪いやつではないにせよ全然良い人なんかではないのが重要だからその意味でも秋彦はでかい。とにかく秋彦こと東京が素晴らしい。光石研のことを若松と呼んだのも素敵だった。

このタイミングでしか見られなかったと思うがもっと早く見られなかったものかとすこし残念に思うほど良かった。

『EUREKA』は上映時間の長い映画なのだがそのことに触れていないのはどういうことなのだろう。映画を見て感じたことを思い出そうとして慌てているようだ。第一感というのではな ないが、秋彦のことをまず書きたいと思ったというのは伝わってくる。『EUREKA』はある事件をきっかけにうまく立ち行かなくなった生活をなんとか立て直すための旅路を描いたロードムービーという側面もある映画だが、事件の外側から途中参加することになる秋彦の役割というのは小さくない。それは映画自体からも感じ取られることだし、関わり合いになるというのは秋彦のように最初ゲストとして参加してだんだん馴染みになっていくということからしかスタートしないという一般的な事情とも一致する。それでいながら、結局ゲストのままで退場していくというのも一般的によくあることだと思われる。ただ、最初はゲストとして椅子に座ることから始まったとしても、時間の経過や共有したものに唆されるようにして、いつまでもゲストのままではいたくないと感じるようになるものだし、実際にゲストではないかのような振る舞いをしたがるものだというのは理解できる。事と次第によってはそれが功を奏することもあるのだろうけれど、その試みのかなり手痛い失敗として秋彦の途中退場は描かれていて、バスから放り出されたときの笑うしかない悲痛さというのは充分に迫力あるものとして画面から直接語りかけてきた。ジョーカーはその笑いを記号として引き受けるキャラクターのことだから、内実はさておき、感じ方として力が逃げていく余地がある。秋彦の退場時の笑いにはその逃げ先がなく、悲痛なままそれを引きずって映画が終わりに向けて進んでいくので、切り替えができず、うまく処理できないことで印象深いシーンになっている。

ユリイカの役所広司のように、きちんと話し合わなければならないのに恐怖心からそれを回避して、ただそのとき進める方向へどんどん進んでいき、結局は悲惨な状況を作り出してしまうというのは誰にとっても教訓になることだ。いや、この書き方はごまかしだ。誰にとっても教訓になるのは間違いないが、自分の今の状況がまさにこれと同じであるように思える。一度止まってでもしっかり考えて行動するべきだ。まずは一度止まること。なんというかすごく流れているのを感じる。流れているのか流されているのかはわからないけど、すごく流れていっている。

20220512

日記18

 GCPの[Networking in the Google Cloud]を完了。

Googleの用意してくれた研修コースをたらたら進めるということは二年経った今でもやっている。それがどれだけ役に立つことなのかというのをあまり考えずにやっているような気がして、それに気がついたときというかそういう気がし始めたタイミングでいつも中断する。始めるときにあまりハードルを上げずに適当に始めることの弊害だといえるが、それを加味しても何かを始めるということのハードルは下げられるだけ下げて、とにかくやってみるということのメリットの大きさにはかなわないに決まっている。

ジムで1000メートル泳ぐ。腕を回すリズムをいつもより早めてみたらスピードがすこし上がって50メートルを泳ぐのがラクになった。

泳ぐのは面白い。スローペースで遠くまでという泳ぎ方とハイペースでスプリントのような泳ぎ方で全然ちがう体験になる。その差が陸上よりもはっきり現れるという気がする。

なんとなく毎日続けている草枕の音読、今日で〈三〉までの進捗(2周目)。文字を目で追いかけるのに必死で余裕が出ない。ただ、音読はまだ全然慣れていないのに読み終わった感がある。べつのを読みたい。

この頃はGCPの勉強だけをやっていた。でも結局、クラウド系の資格は取らなかった。

最初1000メートルを泳ぐというのは途方も無いことだった。でも泳いでいるうちに慣れてきて1000メートルは泳げるようになってきた。

草枕の音読は面白かったし、音読は引っ越ししてもしばらくやっていたのにいつの間にかやめてしまった。やっぱり働き始めると余計な時間がなくなっていくから良くない。余計なよしなしごとに手をつける機会はどうしても減ってしまう。

ただ当時は当時で、日記に書くようなこともとくになく、MACの前に座って何を書こうかとぼんやりする時間が多くなっていたのはたしかで、気持ちがだらだらして日記などを書く気がしないというのはあった。今は忙しいから忙しい気持ちでキーボードを打つし、そのついでに何ごとかを書きつけようとする気は起こる。

声を出すということを身に着けようとして、好きなテキストを声に出して読むということを始めたのだった。これは映画『ドライブ・マイ・カー』の影響で、ひとりで始められることについては悩むまでもなくひとりで始めればいいと思って始めたのだった。その延長線上に演劇祭への参加があったり、暇さえあれば面白いことはいくらでも始められる。そういう環境に自分を置いていることは明確に利点なので、これからもそれを十二分に活かしていきたい。

20220510

日記17

 スコット・フィッツジェラルドの『最後の大君』を読み終える。グレート・ギャツビーほどの大作ではなかった。訳者の村上春樹は読み返してみて評価をあらためたと言っていたが、あまりピンとこなかった。さすがにフィッツジェラルドだと思わせるような面白いところはあったけれど、世に言う「未完の大作」の中では惜しくない方に属する。巻末に附されている遺稿のノートの中にこういうふうに見せたいというフィッツジェラルド自身の覚え書きがあって、それによって結末はどうなったんだろうという疑問が解けたのも良くなかった。読者にこう印象されたいという作者自身のメモ書きと、何作か読んで作者のタッチが意識に浸透しているのとがあれば、そこから計算してなんとなくこんなふうだろうと脳内で再生できる。そのイメージがつまらないのは再生機器のせいかもしれないけど、そこからどれだけ磨きをかけて解像度を上げようとも想像以上のものにはならないのはほとんど確実。そのイメージがどこから来ているものかを思えばこれはむしろ賞賛と捉えられることかもしれないが、そもそもそれ以前の問題としてシンプルに続きが気にならなかった。

ただ、スコット・フィッツジェラルドがその磨き上げられた文体を通して時代精神を映しているのは確かで、『ラスト・タイクーン』がかなり綺麗で見目がいい形で1920年代のアメリカの空気感を今に伝えているのは間違いない。いずれにせよそれ以上のものを要求するのははっきり言って筋違い。『グレート・ギャツビー』では完成された寓話の強烈な印象がとにかく目を引くから、そういった限定的な空気感を味合わせるのはむしろラスト・タイクーンのほうだと言えるかもしれない。ただそれにしても一読したときの印象にすぎず、大は小を兼ねると言う言葉のとおり、時代精神を感じようとするにしてもグレート・ギャツビーを再読すればいいだけ。まあ二読した程度ではギャツビーの奥にある時代精神みたいなものに届くかは微妙で、「あれは固有の精神であって時代精神のようなふわふわしたものではない」と全然言いたくなるとも思う。ただその場合でも三度四度と読み直せばいいだけの話。そもそも私にとっては時代精神なんていうものが再生されたところで別段興味が湧くわけでもない。きちんと再生されることに驚き、すごいなと感心するけれど、それにしたって100年前のオルゴールが今も鳴る、すごい! というのと大して違わない。昔の小説を読む動機がそのあたりにあったり、アンティークに興味がある人にとっては良い小説なんだろうか。

未完の絶筆がとにかく惜しまれるといえば漱石の明暗、それとは反対に、絶筆でかえって良かったと思わされるのはカフカの城、どっちがよかったのか決めかねるのがドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟とそれぞれに代表があるとすれば、べつにどっちでもかまわない代表がラスト・タイクーンということになった。太宰のグッド・バイと横並び。

フィッツジェラルドが娘に宛てた手紙のなかに以下の文章があると訳者あとがきに書いてあった。


「人生とは本質的にいかさま勝負であり、最後にはこちらが負けるに決まっている。それを償ってくれるものといえば、『幸福や愉しみ』なんかではなく、苦闘からもたらされるより深い満足感なのです」


より深い満足感は措くとして、フィッツジェラルドは幸福や愉しみをあきらかに低く見積もっていて、そこにこそ彼の作品の面白さの秘密がある。そういう流行、それに乗ったのかそれとも作ったのかわからないが、そういう考え方の流行のようなもの、現在からみれば「時代精神」があって、スコット・フィッツジェラルドはかなり忠実にその流れを下っていった作家だ。

それがわるいと言いたいわけではないが、自分がどう考えるかということをかなり真剣に考えているようだ。他人からすれば大した違いとは思えないであろう内容のちがいや表現のちがいにいちいちむきになって、そのちがいについてどのようにちがうのかを明らかにしようとしている。たとえば行動にともなう動機があるとして、動機Aと動機Bとの組み合わせのうえに行動が成り立っているのをわかっていながら、動機Aが大々的に取り上げられているのに気を悪くして「動機Bこそ」と言いたいあまり、むしろ動機Bによって行動は成り立っているのだと強弁するきらいがある。正しいかどうかはべつとしてそれならまだましなほうで、ここに見られるのは、動機A:動機Bの割合が8:2と言われているがそれは間違っている、動機Bの割合は少なく見積もっても3はあるはずだと主張することだ。こんなふうに動機Aが主な動機だと認めていながら動機Bの割当がもうすこし増えてしかるべきだということを一生懸命主張するのは、無関係な他人からすればどうでもいいことのひとつに数えられることだろう。

正しくありたい。が、自分が感じるままに感じるということから手を離したくない。どっちつかずの態度がこのような書き方になって表れる。それがわるいと言いたいわけではないが、すこし時間が経ってから振り返ればその意図が浮き彫りになる。とても狭い範囲で、そのうえ曖昧な模様として。だからそこに嘘はないのだが、もっと大胆に嘘をついてみてもいいんだよと言ってあげたくもなる。


久しぶりにジムに行って泳ぐ。来月から月額料金を1100円値上げするという案内が届いたので5月いっぱいで解約することにして、その手続きを済ませる。これからは泳ぎたくなったときには市民プールに行く。歩けないぐらいの距離なのですこし遠いが仕方ない。その後、井の頭公園を散歩する。

このジムのプールは部屋を出てから5分経たないうちに水のなかに浮かんでいられるぐらい近い距離にあってとても良かった。水に浮かんで手足を動かし、水をつかむ感覚で推進力を得るのは特有の楽しさがあってよかった。視界一面が青色で統一されているのも異界という感じが手軽に得られてよかった。泳いだあとに暗い公園を散歩しながら音楽を聴いて、缶チューハイを飲むのも楽しかった。当時は毎日に浮遊感があってバカンスの時期として思い出せる。まあ一年しか経っていないんだけど。

20220508

日記16

 午後から千駄木・根津エリアの内見に行く。都合3件回って食指が動く部屋は見つからず。道中たまたま見つけた不動産屋に掲示されている部屋情報にも良いものは見つからず。ネットで見つけた物件程度のものさえなかった。

上野公園を散歩してから銀座線で渋谷へ。嵯峨谷で刻みタマネギそばを食べてからシネクイントで『死刑にいたる病』を見る。劇場は満員で、大学生とおぼしき若人が多かった。

映画の内容は連続殺人犯のインタビューもので、最初の殺人犯の紹介にあたるシーンがこの映画の白眉。序盤、大目に見て前半までは最初のペースを保てていたが、後半には失速して、最初が良かっただけに余計残念な気がした。ただ殺すのではなく苦痛を与えて殺すというコミュニケーションのとり方を簡潔に「それが必要だから」とだけ言わせるのには嘘がなくて感心した。

最後のシーンは女の子にきつめのブラックジョークを言わせてそれが冗談なのかまじなのかわからなくて混乱する主人公・・・、みたいな見せ方のほうが好みに合う。原作がどうなっているのかは気になるけどたぶん読まない。

吉祥寺に戻り、井の頭公園を散歩する。23時過ぎという時間帯でも、昨日一昨日との人の量の差があからさまで、月曜日の威力を知る。井の頭公園にしてはスカスカだった。

20220504

日記15

 昨日

謎の早起きをし、しかも二度寝に失敗したので仕方なく起きてNHKスペシャルの再放送を見る。

昼前から千駄木に行く。一軒家の内見をしてからカレーうどんを食べる。久しぶりのカレーうどんは美味しかったうえに、紙エプロンの二枚使いで白いTシャツを駄目にしないで済む。団子坂を上って観潮楼をひと目見てから、谷中銀座を抜けて猫二匹とすれ違い、夕焼けだんだんを上って西日暮里駅に着くつもりが日暮里駅に着く。

4時間弱の睡眠時間では気持ちが弱るので帰って夕寝する。

日が落ちてから渋谷に行って代々木公園の手前まで歩き、若い人が集まる何かの集会の隣に座って酒を飲む。十数本の蝋燭の火に囲まれた一人を取り囲むような布陣で何の集会なのか見当もつかず。


日記788

注意するに越したことなし 2026/08/04 昨日 15208 朝から出社。8時頃でもまだ涼しかった。午後から在宅勤務に切り替える。昼ごはんにスパゲティを食べる。腕立て伏せ。1時間すこし昼寝をする。『罪と罰』を読む。急な問い合わせが入り、定時すこしすぎに...