20240618

日記400

退勤エリート

2024/06/17 昨日
この日記もとうとう400の大台にのった。読みやすい文章を書く気にはならないから、せめて読みやすい書式を作成してもいいかもしれない。手間だったら止めとくが、簡単に変更できるのであれば変更しようかと思う。そもそも読んでもらうことを前提として書いていないのだが、それはそれとして読んでほしいという気持ちがある。読んでもらうことで受けられる報いは読むことそのものでそれ以上でもそれ以下でもないけれども、簡単に読みやすくできるのであれば読みやすくして悪いことはひとつもない。百害あって一利なしの逆。
昨日はのどの不調が顕著で、そのために体力が奪われる感じもあったので療養に専念すると号して図書館にもスターバックスにも寄らずに即帰宅。メトロンズの『寝てるやつがいる』という公演をみる。前回公演のホームルール路線だが縮小再生産という印象を拭えない。生で見たのと体調がわるいときにタブレットで見たのとを較べるのはアンフェアだが、メンツにもこなれてる感じがあってお馴染みのという感覚以上のものはなかった。
二十二時半、Vがねむるより前にねむる。

2024/06/18 今日
雨降る中の出勤。外経路を回避するためできるだけ地下を通ってビルに向かう。おそらく現状ではこれが最短。百メートル弱に抑えられていると思う。
仕事時間。打ち合わせ動画研修、Web研修、打ち合わせ、メールでの問い合わせ。
前日にたっぷり睡眠をとったり、マスクをしていったりと配慮して喉をいたわったおかげで仕事終わりにスタバに行けるぐらいには回復(もしくは温存?)できた。
行きは千代田線で『オリエンタリズム』、帰りは銀座線で『ロリータ』を読む。こういうことで文句をいうのも何だが、背表紙にでかでかとロリータと書かれてあるのは、嗜好を超えて主義主張とさえ捉えられかねないのではないかと気が引ける。そんな嗜好も主義主張もないのにステッカーを貼ってファッションしている気分。まあでもそういう嗜好はあるから良いか。
五十ページ近くになってようやくロリータご本人登場。離婚のくだりとか細々した些事扱いだったのに読ませた。大きく振りかぶっていないところにも注意力が向けられるようになっている。しかし、さて、これからどうなる。
多くのビルを見下ろせる窓際の席に座ってぼーっとしていると、取り止めもなくいろんなことを思いついてはそのまま忘れていく。そういうことを覚えておいて日記に書きたいと思うのだけど、一時的な感興を後で書けるほどこだわって覚えていられない。あえてそれらを把持しようとすることで、べつの取り止めもない流れが途切れるようなことがあると本末転倒な気がしてしまう。しかしぼーっとすることそのものには本も末もないのだから、自然の流れを優先するよりも、カクつきを許容してしまったうえで、何らかのかたちに残せるようにと、一昨日から文房具を導入した。文房具というのはただのペンとノートで、それを業務端末の隣に置いておいて、ぼーっとしているとき用のメモ書きにするというだけのこと。
ぼーっとしていて取り止めもないことを考えているということ自体、自分にとって都合の良い解釈というか、何もないところに霞が立った煙が見えたと、それを掴めないことが確定したあとから騒いでいるだけのことのような気がしてきた。それというのも、丸三日経ってノートにはほとんど何も書かれないままだし、何か書かれていると思ったら「薬用養命酒 毒用捨物水←逆」という無意味な言葉の羅列でしかない。あとは仕事のメモ書きだけ。本当にそれ以外何も書かれていない……。
しかしこれはノートに書いたことではないのだが、そのことを思い出しているうちに思い出したから書けることがある。FF6のこと。自分がはじめて遊んだRPGだ。スーパーファミコンにはセーブが消えるという子供にとってそれは恐ろしい機能が付いていたのだが、セーブが消えても何度もプレイした。それこそ小学1年生から中学生になるまで何度もプレイしたし、最初自分がプレイするのを弟が見ていたのだが、途中から弟もプレイするようになって、反対にそれを見ていたりもした。ストーリーも覚えている。というかどの街をどの順で通って誰が仲間になっていくかというのをすべて覚えている。子供ながらによくできているなと思ったのは、最初の街ナルシェから出かけて帰るまでのあいだに少しずつ仲間が増えるのだが、ある急峻を川下りするときに仲間と離ればなれになるところだ。三局面展開になり、それぞれの局面でさらに仲間が増えていく。マッシュが好きだったから、彼のコースでカイエン・シャドウ・ガウと仲間が増えて一気に四人パーティが組めることに喜びを覚えたものだった。あの年頃で初めてプレイするRPGというのは原体験になると言ってもいい。自分にとって物語と言ったらまずはファイナルファンタジーⅥで、それはこの先も変わることがないだろう。心のなかにFF6がいる。ティナ、ロック、モグ、エドガー、マッシュ、シャドウ、カイエン、ガウ、セリス、セッツァー、ストラゴス、リルム、ウーマロ、ゴゴ、誰か忘れている気がするけど、忘れていない(一応調べた)。主人公がひとりではない物語を受け入れることが容易いのはFF6の影響だと思う。逆に最初にFF6を通らずになぜ群像劇というものを受け入れられるのかが謎なぐらいだ。普通に「主人公=この自分」というモデルが一般的だろうと思うし、大体の物語でそのビジョンは強化されるはずだから、急に群像劇と言われても意味がつかめないのではないかと思うのだが。

20240616

日記399

汗っかき犬

2024/06/15 昨日
スタバに二十二時半までいたあと、雨のなかミカンの入口のシッティングスペースで雨宿り兼飲酒をする。雨降りといっても小雨なので道行く人のほとんどは傘などささず、大股にのっしのっしと歩き回っていた。バレンボイムのベートーベンを聴く。男が隣に座って何かと思ったら隣の女に喋りかけ始めた。ナンパだ。まずはインスタのアカウントを聞き出そうとし、芳しくない返事にもたじろがずラインを聞き出そうとしていた。うまくいったようには見えなかったがそれでもへこたれず、誰かと待ち合わせですか、下北にはよく来るんですかと余裕の世間話。女の側は内心迷惑に思っていたのかもしれないがそういったことをおくびにも出さない礼儀の行き届いた立派なレディで、知らない人に急に話しかけられたとき一般の尋常の受け答え。でも結局、待ち合わせの人が来たとかで話は終わっていった。男のほうが言っていたことで印象に残ったのは「仲良くなりたいなと思って」という口説き文句だった。彼の意図を表現するにあたり、完全に正確な言い回しとはいえないかもしれないが嘘をついているわけではないので、とくに悪びれる必要もないためか終始あっけらかんとした態度で、受ける側もそんなに鬱陶しくないだろうという気がした。ぺこぱ松陰寺が言うところの「わるくないだろう」というやつ。
雨がやんだので追加の酒と晩ごはんを買って帰る。帰宅して有吉eeeeを見ながら酒を飲む。津田と丹生ちゃんのPICO PARKの回。

2024/06/16 今日
九時過ぎに起きる。ゆっくり朝の準備をして、フレンチトーストを作ってもらって朝食をとる。スタバに出かけたたのが十一時過ぎ。それから『オリエンタリズム』を読む。ブログの記事を書いてぼーっとする。十五時半頃に二杯目のドリップとフィローネをたのむ。日記を書いたら十七時半。いくらなんでも同じ席に座りすぎだが、ある程度まとまった時間集中したいので仕方がない。『戦争と平和』を読む。

消去法スマート、あるいは短くて重い杖

最近、スマートという言葉に興味がある。電話というツールがスーパースマートになって久しいが、それにともなって、扱う側の人間もそれなりにスマートを進化させている。そして、状況の変化のなかでスマートの定義そのものも少しずつだが確実に変化していっているはずだ。
……はずなのだが、大きな船に乗っていると乗員である自分もつねに動いているという事実に気がつかないように、時間の経過による緩やかな変化には気がつきにくいものだから、スマートの定義やそれ以外のものとの位置関係も変化しているものの自分たちでは変化に気が付きにくいということが起こっているように思われる。その変化に興味がある。
今のスマートと以前のスマート、両者の変化したところと変化していないところ、それらのスマートとその関係に興味がある。ここでの「変化していない」というところも、スマート概念からすると普遍的で、だから変化していないといえるものもあれば、十年の時間単位では変化が見えないけれど百年単位で見れば変化しているというものもあるだろう。
人類が誕生してからしばらく経つと、腕っぷしという意味での力に加えて、「賢さ」が重視されるようになった。時代や環境によっては力によって賢さが無力化されることがあったが、それはあくまでも例外的な一時期、限られた環境下のことであり、基本的に賢さは重要な指標であり続けた。ようするに賢さという価値が発生してから、人類は一度もその価値を手放していない。それはホモ・サピエンス(=賢い人)という呼称にも表れているし、自分以外の他人にどう思われたいかという個人の思惑にも表れている。
後者は前者ほど歴然と表れていないが、人間がアーカイブとして残ろうとするときに起こる自然淘汰において、もっとも重要な指標となるのが「いかに賢いか」ということであるのは明らかだ。歴史を学ぶことが常識になっている今、賢さという価値についてまったく知らず、あくまで無謬であるとする姿勢を維持することは簡単なことではない。そもそもそういったスタンスを選ぶということにも賢さは存しなければ済まないというわけだ。
だが、現実には資質や環境の問題もあるから、そういったことを考えない人たちが存在しなかったというわけではない。どの時代にも賢さについて興味関心をもたない人はいただろうし、それは多数派でさえあっただろう。ただし、現在時からみて千年前の多数派は存在しないも同然、というのは言いすぎであるにしても、不可視でかぎりなく透明な存在であることは疑えない。
名も知れない賢人が千年前にもおそらくいたのだろうと想像することはあっても、名も知れないただの人がいたのだろうと想像することはない。そう想像する機会が少ないのは、そういった想像をする人の賢さが、自分に似た境遇のだれかを想像しようとし、つまりあり得たかもしれない自分を想像するにおいて、暗々裏に賢い人(社会に馴染みきれない・社会を不完全な乗り物とみなす)を想像するだろうからだ。考えるものは自らを賢いものとみなす。無知の知を問いたソクラテスにしても(そして彼の発言をフォローする無数の人たちも)、知について譲歩することでその奥にある知を得ようとしたわけで、賢さを放棄したわけではない。謙遜して自分は賢くないというものがしていることといえば、目の前のリンゴを齧らないだけの賢明さが自分にはあるという主張にすぎない。物事を客観的に見ていますよという宣伝だ。
しかし「賢さ」というのがむき出しの概念であるということは言えて、直接に「賢さ」に言及することがかえって賢さから遠ざかるという段階が出現する。ただし、これは賢さを指標にすることをやめるという話ではない。その指標をやめるように見せて、実際には隠しパラメータにするだけの話だ。これは本質的にペテンであって目くらましにすぎない。自分より愚かな人間に対してのみ有効なやり方で、賢さという長いスパンの考えにおいて有効となるものではない。有効期限が自分自身の人生をすっぽり覆うために、個人としてこのやり方を選ぶというのは合理的な選択だといえるかもしれないが、現在から見て錬金術がまったくのナンセンスに感じられるように、十分考慮を経たうえで判断するなら(今の常識で考えれば)、ただのナンセンスでしかない。賢さを秘蹟であったり魔術的なものであるとするのは、手品師の手品のようなものだ。ネタの割れた手品を見て喜ぶものは誰もいない。
それとはやや違う、しかし似たケースとして、賢さ以外のものに価値を置くという考えが台頭する。賢さ以外のものとして「愛」というものを発明し、それに殉じるという姿勢だ。これは個人として限られた生を前提とする立場からは賢い選択だといえる。「それがあれば生きられる」という杖を手にするやり方で、現在時からは存在の見えない多数派も、じつは生まれてから死ぬまでのあいだに銘々でこの杖を手に入れて、それを握りしめて死んでいったのだと考えられる。それは個人の選択として、たとえそれしか道がなかったとしても、十分に賢い選択だと考えられる。この選択によって、過去の多くの人たち(そして存在しない未来の多くの人たち)、本来は不可視の存在である彼らと精神的なつながりを持つことができる。たしかにこれは必要十分な利点であるのかもしれず、同じ杖を持っているという標(しるし)が、透明で見えないはずのものを感じ取らせるよすがになる。その世界観は現実における確かな支えになる。

自分には賢さに逆行したいという思いがある。そもそもの前提に異議を唱えるためには賢さを捨てる必要があると思うからだ。しかし、逆行するのはともかくとして、捨てるということはむずかしい。じつは試したこともないのだが、どこまで行っても「本当の意味での賢さ」という考えから抜け出せないという気がする。
しかも、杖から目を離すこともできないと思う。手に取ろうとしないのにもかかわらず、つねに視界の中には入れておきたい、選択肢として可能性を残しておきたいという思いが離れない。これは臆病からというよりは自分の思う「賢さ」からそうしているつもりでいる。
どこまで賢くなれるのかという自分自身に向けた問いは、賢いという価値がどういった形式・内容にまで変化していくのかという問いに置き換えられる。社会のスマートが変化していくのを尻目に、部分的にはそれに逆行し、べつの部分では順行するかたちで、独自のスマート観を進化させることで、結果的に幅を持たせたいというのが現在のところの漠然とした展望である。
また、幅という観点からは、賢さを重要な指標にしていない存在にとっての賢さにも興味がある。自分以外のもの、外側からの視点を取り入れるために、「賢さ」がいろいろある指標のなかの一要素にすぎないという考えを想像して、それを自分の在り方の参考にしてみたい。

20240615

日記398

ライブ映画をライブで

2024/06/14 昨日
金曜日は仕事をしていても気持ちが軽い。案件の並列処理が重なってきたのでそれなりに忙しくなりそう。しかもチームメンバーがひとり退場するとの発表があった。その人はわりと残業対応が多かったので、単純に考えると仕事のボリュームがそのまま降りてくることになるはずなので若干気が重い。一月か二月に入場させて六月に退場させるというのは管理体制の杜撰さというか計画性のなさでしかないので、どう考えてもその割りを食っている。非正規社員に対しては普通にそういうことをしてくる会社だということをあらためて認識したうえで、振られた仕事はきっちりこなすというスタンスを取るべきだと思った。無駄に顔色を伺ったり、必要以上にいい仕事をしようと息巻いたり、身を入れても働いても仕方がない。
そんななか、安全上のリスク管理をする新ルールをうっすら破ろうとする打ち合わせに参加することになった。「まあルールは大事だけれど経費やスケジュールの問題があるし、ね?」みたいな”現場の”考え方があり、新人としてそういう機微に気づいていないふりをしつつルール準拠のフローを押したが、良い人たちにじっとり説得されそうになった。結局その場では方針についての結論が出ず、上長に相談しようということになって打ち合わせが終わったのだが、上長との打ち合わせでは上長から「とはいえルール遵守は鉄則だ」という話が出た。それもあって軌道修正されてルールに則ったかたちで進むことになった。これまでは”現場の判断”として、経費を抑えつつ現場の人間にリスクを負わせるようなやり方をずっとやってきたんだろう。もしルールがしっかりしていなかったらそうなっていたんだろうから、やはりルール策定は大事なことなんだと思わさせられた。企業の利益を個人の安全リスクより優先するような働き方をするとしたらはっきり言って俺個人としては終わりなので、今回はまだなんとかなったが、そういうときのハンドルの握り方を身に着けないといけないと今回の件でつよく思った。自分の近くで波風を立てないというのを最優先にしないこと。たかだかお金のことなんだから仕事なんていつやめてもいい。自分をやめるわけにはいかない。なあなあで済ませようとしたおじさんたちはふたりとも優しくて良い人という印象だったが、少なくとも俺のなかのイメージは地に落ちた。自分をやめ終わっているひと。でもそんなことより何より打ち合わせ中に「自分より経験のあるふたりが言うなら実際にはそこまで危険ではないのかもしれないな……」などとリスクを回避しようとする考え方が自分のなかで存在感を持ってきたことがきつい。我ながらすごく残念で情けなかった。自分が任された案件は自分が責任者だということを忘れないようにしよう。優先順位も当然俺が決める。そして優先度が高いと判断したある面では(譲れない部分では)人のせいにしようとしない。
仕事後に友人と電話で話す。将来のことや仕事のことについて悩んでいるようなのだが、楽観的な話ばっかりしてしまう。よかれと思ってのことだが、それでよいのかどうなのか。しかし自分としては、自分の考え方というか俺だったらこう考えるということしか言えない。無責任かもしれないが、俺は彼の友人であって責任者ではない。だから気を遣わずに喋れるのだし、それでいいんだと思う。いい加減なことを言い過ぎないように注意しないといけないとは思うが、あまり脇を締めているとは我ながら思われない……。
日比谷線で恵比寿に移動する。かむくらでスタミナラーメンを食べる。天理スタミナラーメンを思い出す。温かくてうまいが顔から大量に汗が吹き出した。その後ガーデンプレイスの野外シネマで『アメリカン・ユートピア』を見る。友人たちとくっちゃべりながら見ようと思っていたが、わけのわからない意味深なMC(ちょっと聞いてみたが「意味深なことを言う」以外の目的があるとは思えない)のとき以外はずーっと歌っていたので喋りにくかった。
その後池ノ上に移動して、かつて下宿したアパートが更地になったのを見学する。いま気づいたが自分の住んでいた場所がなくなるという経験は初めてだった。勝手に「まだあんのかい」とずっと言い続けると思っていたので驚いたというのが一番だが、それに慣れた先に感慨深いものがあるような気がする。そこからスズナリ経由で下北沢まで歩く。もうあまり歩くことのないコースになるかもしれない……。
エキウエ前の階段エリアに座って酒を飲む。若い人が多く、盛り上がりつつ皆なんとなく今の生活や将来のことを語らっているような雰囲気があって、気候も外飲みにちょうどいいし、話すことが楽しかった。自分は話すときには内容を重視してしまうが、話すというのは内容じゃないのかもしれない。とりあえずやり取りをして、そのうちに言いたいことを言えるタイミングがくるという行き当たりばったりなやり方で充分だと思っているのかもしれない。そして、だからなのかどうなのかわからないが、すこしいい話を聞けたように思う。

2024/06/15 今日
昨夜の就寝時間を考えるともっと寝たかったのに八時に目が覚めてしまった。でも起きてしまったものは仕方ない。二度寝には失敗する。日中はほぼ一日家でだらだらする。午前中と午後の二度、駅前に行って用事を済ませる。一度目は未来のレモンサワーを宅急便で実家に送るためコンビニに。二度目は遅い昼飯の弁当を買いにスーパーに。セブンイレブンとまいばすけっと。
遅い朝飯はフレンチトーストを作ってもらったのを食べる。ダンジョン飯の一期最終回を見ながら。ライオスが方法を”考えて”いる場面でぐっとくる。マルシルの涙もそれにギョッとするイヅツミもそれぞれの良さがあって良い。それぞれにフェーズや歩幅があって、ポジションはあってもどっちが良いとか悪いとかいえないということがきちんと表現されている。
家で『存在することの習慣』を読む。読了。俺はクリスチャンでもなければカトリックでもないが、祈りたいような気持ちになった。モハメド・アリについてイスラム教徒なのがもったいないと言っているくだりなど、フラナリー自身の位置と考えに対して率直で、これをこのまま受け取れるのであれば全然嫌な気持ちがしない。
『ロリータ』を読む。言っていることが「わかる」ように書かれている。「わかる」ではいけないのにそこに連れて行かれるとすればそれがそのまま小説の達成になる仕掛けで、しかも著者が技巧的達成に堕しておらず、篤実なことは疑えない……。ということになっていくのだろう。
日が落ちてからユニクロに行く。オンライン購入したTシャツが五〇〇円引きになっていたので、受け取って試着→イメージと違うから返品ということにしてもらう。その代わりといっては何だが、同じTシャツのサイズ違いを合計三着購入する(これは本当に”何”だ。安くなっているからまとめ買いしたというだけの話)。
二十一時にスタバに行く。ほうじ茶ラテを飲んで日記を書く。

20240613

日記397

見え

2024/06/12 昨日
日記を書いているうちにスタバの閉店時間になった。氷結を飲んで帰る。未来のレモンサワーを実家に送ろうと三缶ずつ買い込む。その後下北をぶらついてもう一缶酒を追加し、すき家で牛丼ライトを買って帰る。有吉クイズを見ながら食べてねむる。

2024/06/13 今日
睡眠時間が少なく寝不足気味。生活習慣をちゃんとしないと。それでも仕事時間にはなんとかやる気をかき集めてやるべきことをこなし、午後の時間は考えることに充てるという名目でボーっとする。『存在することの習慣』でフラナリーが書くために本を読まない時間を日に三時間作れと若い作家にアドバイスしていてこれが一番基本になるアドバイスだと思った。しかしこの時代にはアドバイスを容れるのがもう少しだけハードで、スマホ見るな、SNS見るな、動画見るな、ラジオ聞くな、音楽聞くな、テレビ見るな、必要な検索をだけしてそこから派生する気になったページを見るな、漫画読むな、本読むなということになる。でも本当にそうだ。オフィスはビジネスしてる人たちでやかましく、なんとか頑張って、仕事するなだけしか達成できなかった。
定時に上がってバルボアでアサリしょうゆ味を食べる。おいしい。ちょっとの誘惑を押しのけて図書館にいく。『存在することの習慣』を読んで日記を書く。

映画『チャレンジャーズ』を見た

恵まれた環境に生まれてきて、ある程度自分の生きる場所を選べる人が、自分自身をどこに置きたいかというのを突き詰めて考えるとき、じつはその「パターン」というのはあまり多くないのかもしれない。

その人は、おそらく物心つく頃から自分自身のことを自然に理解していて、それを理由として、当然のように自分という存在に関心を持っている。一方で、自分のことが好きか嫌いかという考え方には馴染まない。そういった区分けというのは表面上のものにすぎず、嫌いと言おうが好きと答えようが、結局、同じ内容をべつの表現で表出しているにすぎないということが、自分の内面を通してはっきり明確になっているからだ。表裏を気にして一向に前に進まないのとは決定的に違う。彼らが好き嫌いについて考えるとすれば、何をやっているときの自分が好きかということだけだ。

これはまさしく恵まれた環境に置かれたものの特権で、たとえ彼がどれほど真剣に悩んでいて、どれだけ自分の願望を充足させることに血道を上げていようと、自分のことを好きになれない人にとってそれは贅沢な悩み、楽しそうな努力ということでしかない。そうするとやはり「生きる世界が違う」という結論にならざるを得ないようだが、そう結論づけるのを保留し、あえてその悩みにフォーカスして考えてみるということ、はたしてそれは可能だろうか。

それが可能かどうかというのは、これもまた個人の資質に依るところが大きく、できるやつはできるし、できないやつはできないというだけの話になる。だが、仮定に仮定を重ねるようでやや撞着の気味があるところではあるが、無理を押してそれができると仮定して、つまりトップテニスプレーヤーとしての人生を想像するということをしてみて、ようやくこの映画のいいたいことが理解できるようになるのではないかと思われる。

そこまで寄り添うことは無理だとしても、次の簡単な条件にだけ同意できれば、チャレンジャーズのいうチャレンジとはどういうことなのかというのを考えられることになる。そこがスタート地点だ。それを考えようとしないでこの映画を見るのは不毛なことだと思われる。境遇が近ければまだしも、想像力をまったく働かせないで見ていて楽しいたぐいの映画ではない。ただただテニスをやっている姿が美しいというだけの映画ではないし、そもそも優れたテニスの試合が見たいのであれば2008年のウィンブルドン決勝をみればいいだけの話だ。

条件というのはつまり、「自分のやることのなかで、何をしているときが一番楽しいかを真剣に考える」ということだ。「何にだったら情熱を傾けられるかを考えること」だと言い換えてもいい。

どんなことをするにしても当惑し、何をするにも失敗を恐れる、という自らの性質からくる絶対の条件を一度外してみて、どんなことでも簡単に、誰よりもうまくできるとした場合、その「楽しみ」はどこにあるのだろうと想像してみることだ。できないことがいくらでもある人たちは、試行回数を増やすことによる慣れや、持ち前の運の良さでなんとかうまくいったときに「最大の報酬」を得られる。できないからこそ、できたときの喜びがあるというわけだ。それなしに自分の達成を冷静に考えてみたら、何をそんなに喜んでいるのか、何がそんなに嬉しかったのかということにもなりかねない。実際考えがそこに及びそうになったら慌てて回路を閉ざし、それ以上考えることをやめなければならないだろう。

しかし、何でもうまくやれる人はそうすることができない。考えがそこに及ぶ及ばないではなく、その冷静な疑問「何が楽しいのか、何が嬉しいのか」というのは、彼らにとって考えはじめるスタート地点にあたるからだ。

つまり、なんでもうまくやれる人とそうではない人は全然ちがうゲームをプレイしているということになる。ある観客があくまでも自分のやっているゲームに固執するというのであれば、おそらくその人にとって『チャレンジャーズ』は見られた映画ではないということになるはずだ。ただただ当惑し、退屈するだけだろう。「何を言っているのかわからない」ということになる。

あるいは、(自分だったら)もっとうまくやれるのに彼らは一体何をしているんだとがっかりするということもあるのかもしれない。一体何に躓いているのか、「何をやっているのかわからない」。


恋愛について、あるいは結婚について、社会にはルールがある。だから当然、社会の一員としてそのルールを遵守しなければならない。当たり前のことだ。

しかし、一方で、「そんなこと知らん自分以外で勝手にやっていろ」という乱暴な一個人の考えが、社会のルールとはまるで関係ないところで存在するのも――ひょっとすると意想外ということになるのかもしれないが――当たり前のことだ。

ただし、社会のルールなんて知らんとうそぶく個人にしたところで、自分以外から影響を受けざるを得ない場面が発生する。社会のルールに抵触したことで払わされるペナルティについては屁でもないわいという顔をできる腕っぷしの強いドンキホーテでも、それによってゲームそのものを没収される憂き目にあってはひとたまりもない。

テニスプレーヤーでいえば、試合中にどれだけ不適切発言をしようが、ラケットを木っ端微塵になるまで叩き折ろうが、肝心要のテニスで相手を圧倒できるのであれば、ポイントのひとつやふたつ惜しくもない。しかし、それで没収試合になり負けを宣告されるとなると黙ってはいられないということだ。恋愛関係でいうと、相手の関心が自分に向いていないということが起こり、それだけならまだしも、自分の関心のほうは相手に固定されてしまって動かしようもないということになれば、それはもう破滅的な事態だ。

なんでもうまくやれる人間が志向するのは、恋愛における破滅的場面や、白黒がはっきりつく勝負事での、圧倒的な強さだ。しかも、圧倒的な強さを表現するためには、相手も自分と同等の強さを持っていなければならない。これはテニスというスポーツの持つ競技性からしてもそうだ。勝利を望むのではなく勝負を望むというのは、勝つか負けるかの勝負を望むということで、どちらに転ぶかわからないというグラつきが感じられなければ意味はない。ただ勝ちたいのではなく、最終的にみじめな敗者となる相手としっかり関係を結んだうえで勝ちたいということ。恋愛に置き換えると、ただ魅了したいのではなく、自分でも信じられないほど完璧に魅了されたその相手を、それ以上に魅了してやりたいということだ。

『チャレンジャーズ』の登場人物たちには、そういう引力をこれ以上なくしっかり感じられる場所に自分自身を置きたいというたしかな願望がある。これは「勝ち負けなど二の次だ」という話ではない。たまたま運悪く、しかし決定的に敗者になった相手にむかって健闘をたたえ、手を差し伸べたいということだ。

略奪愛であれ、テニスの名試合であれ、当人同士がどれだけ真剣にそれに取り組もうとも、外野から見たときのそれは矮小化され、ある枠の中に収まることになる。これは真剣さの度合いをいくら引き上げても、生きるか死ぬかというレベルにまでシリアスの度を高めたとしても、回避できるものではない。それは単純にどこに目線をおくかの問題だからだ。人生を賭ける、人が得られないようなたくさんの報酬を得る、誰もが成し難いことを達成する、前人未到の領域に到達する、そういったことの本当の価値はそれをやった当人にしかわからない。しかも、どういうわけか外野はその価値についてなんとなく知っているつもりになっている……。

外野から見ても本当に感動したといえることがあるとすれば、おそらく成し遂げたことの大小は関係ない(大小が問題になるのはその達成が自分のもとに届くほど有名になるかどうかという部分にとどまる)。自分自身でも何を望んでいるのかわからないまま望み続けていたものについて「これだ」と確信を持つことになるその瞬間を見ることだ。得られるはずのないもの、得られるとは予期していなかったこと、”確信の瞬間”にはそれらが一挙に目的になる。その瞬間へのすべての流れ込みを目の当たりに見る気がするからだ。これでもない、あれでもないと、偽のゴールをすべて振り捨ててこなければ到達できないところに自分自身を置くことができたとすれば、そこから得られる報酬というのは、できなかったことがなんとかうまくいったときの「最大の報酬」に優るとも劣らないものになることだろう。なぜだかわからないが、その確信についてはわかる気がする。想像できる気がする。この「わかる気がする・想像できる気がする」がなければ一切何もない。『チャレンジャーズ』はそういう映画だ。大多数の人が見て面白い、誰でも楽しめるというような作品ではない。そこが魅力の中心に据えられているという意味で、このポピュリズム全盛の時代にエリーティズム全開でやっていて、チャレンジングな映画だともいえて、自分はこの映画のそういうところにも個人的好感をもった。

20240612

日記396

この色

2024/06/11 昨日
閉館一〇分前まで図書館で読書。ナボコフの『ロリータ』を借りて帰る。帰宅時間がぎりぎりになりそうだったので走って帰る。二十二時半のB就寝時間に滑り込みで間に合って「ただいま」を言えた。Bも寝る前になんか言っていた気がするけど何だったか忘れてしまった。

2024/06/12 今日
昼ご飯にバルボアのぼっかけを食べた。
定時後すぐに虎の門を飛び出してゼンデイヤの『チャレンジャーズ』を見に行く。渋谷ヒューマントラストシネマで見たがODESSAで運が良かった。(ODESSAの紹介映像はかっこいい)
『チャレンジャーズ』は映画館で見ない場合、この映画の馬鹿馬鹿しい盛り上がりが体感できないのでほとんど見る意味がなくなってしまう気がする。
途中あくびを挟みながらも、音楽の使い方といい、テニスという競技の間の抜けた馬鹿馬鹿しさ(球を打つときのハポンという音からして間抜け)といい、スポーツ優等生の滑稽なシリアスさごと笑いながら見ていたが、最後クライマックスシーンには爆笑しながらもちょっと涙が出るという映画鑑賞体験になった。『チャレンジャーズ』というタイトルの時点で見に行かないという選択肢を削られていたわけだが、見に行ってよかった。
テニスだけを追求していく求道者が、自分の願望を見つけ出してそれを叶えようとする話で、基本的にスポ魂映画だった。ただし、普通のスポ魂作品が持っている寓話要素が削られて、代わりに一瞬の輝きというにはあまりにも間延びした、長いスパンでのスポーツ魂が描かれていた。しかもその際、恋愛を横においておくのではなく、スポーツ魂と不可分で渾然一体の情動的欲望にしていて、カオティックで意欲的な作品ながら、登場人物の情動は完全に「ザ・アメリカン」ともいえる姿勢で一貫しており、ところどころ解釈の余地を残すにしても、そこに深さのようなものは一切ない。
主要登場人物は女ひとり、男ふたりで、時代が違えば男ふたりが持っているのはラケットではなく刀剣類ということになるのだろうが、最初のシーンから命の奪い合いという見立てが十分に可能になるような描かれ方をされており、実際に命が懸かっていないからといって、たとえば中世の決闘者の持っているシリアスさには及ばないと見ることはできない。これは劇あるいは劇映画の登場人物が演技によって小道具の竹光を真剣と捉えるのと同じことで、「でもだってラケットじゃん」ということを言うとしたらそれは観客の側に不足がある。フィクションには興味が持てない、ドキュメンタリーだったら見ると言う人のことを「たしかにそういう意見もあるか」と思いながらもどこか馬鹿にしてしまうのは、彼が自分自身の人生しか生きられないということを自分で選び、自分の外から何かを学び取ろうという意欲を持っていないように見えることからくるのと同じことで、「たかがテニスでそんなに真剣になって」とチャレンジャーズのことを馬鹿にするのは、何に対しても真剣になることのできない冷笑家か、本当の命のやり取り以外には真剣さというものを認めない野蛮人か、どんなときもどんなことにでも笑っていたい馬鹿か、そのいずれかということになる。
そしてここがポイントなのだが、チャレンジャーズは長いスパンで自分の望むものに向かってたゆまぬ努力を続け、彼らなりに一直線に進んできたことで、いつしかテニスに対する真剣な姿勢を越えてしまっている。つまり、ある時点からあとの彼らは真剣なスポーツマンでもあり冷笑家でもあるということだ。テニスだけしかなかったという時代を抜けてテニス以外にもいろいろあるということを現代時の彼らは知っていて、そのため「たかがテニス」という視点を持ったうえで、真剣にテニスを追求している。テニスだけを見ていればそれでよかった頃とは事情が変わって、とにかく強烈に何かを求めているのだが、そしてそれを手に入れようとすることを生活の中心に据えて突き進んでいるのだが、何を求めているのかという肝心のところがわからなくなって、強い意思と不屈の闘志を持ったままで迷子になっているのだ。求めることをやめれば迷子であるという状況も終わりになるはずなのだが、それでもつとめて迷子でいようとする。それは自分自身の求めているものが自分自身を超えたものであって欲しいという願望からきているにちがいない。性的な情動、勝つか負けるかしかない勝負、相手を自分に屈服させたいという気持ちのなかで、アンコントローラブルな状況に自分と相手を追い込んでいく。
そういうところから何を得たいかといって、自分だけではなく相手も巻き込んでぐちゃぐちゃに関係しあいながら一心に求め続けてきたものが得られる瞬間でしかない。その一瞬にこそテニスを超えるということが本当に起こるはずだし、しかもそこで片方の生命が実際には尽きないということの利点、見立てることの利点が完璧に表現されることになる。それを見るとき、テニスという競技はやはりどこか馬鹿馬鹿しいが、馬鹿馬鹿しくて良かったとさえ思えるはずだ。
ただし、この見立てはひとりの視点しか代表していない。何かを手に入れたいと望むことと、何かを失いたくないと望むことはまったく別のことだ。それぞれにそれぞれのチャレンジがある。ふたつに共通するのはチャレンジが成功するとは限らないこと、自分がどれほど努力してもうまくいかないことがあり、「成功するのも失敗するのも自分次第」とは言いたくても言えないということだ。
スタバでほうじ茶&クラシックティーラテのアイスをたのむ。日記を書く。
昔持っていて今持っていないものを美化して情熱と呼びたくなるがそれは単に極端な視野狭窄ではなかったか。当然違う。が、そんなふうに間違って考えてしまうタイミングが多くなってきている。
どちらにしても情熱を求め始めたらおしまいだ。若さを求め始めるのと同じで。それでも疾風怒涛などと言いたくなることも増えてきている。バレンボイムのベートーヴェン月光がわかりやすくて良い。
チャレンジャーズの現在時は2019年だが、ゼンデイヤの娘がスパイダーバースを見たがって隣の部屋からスパイダーバースの音が聞こえてきたところと、ロッカールームで男がめっちゃスワイプしてるところがとくに好ましかった。

日記728

光る路 2026/03/03 昨日 3561 スタバを出てから氷結グレープフルーツを買って雨宿りがてら駅前で飲む。家人にケーキと、自分に晩御飯を買って帰る。ダイエーが店名をイオンフードスタイルに変更したとかいう話だった。ノーノーガールズの7話を見る。オーデ...