20220715

日記27

10日間の療養明け。10日間ぐらいは余裕だろうと思ったし事実余裕だったのだが、それはそれとして電車に乗って外出するのはやっぱり楽しい。雨に降られるのも苦にならず。

恵比寿に行った。

気に入っているパンツのブランドの直営店に試着をしに行く。ワイドとスタンダードのシルエットでそれぞれ46と48のサイズを履いてみた。パンツだけちゃんとしたものを履いて上はTシャツ一枚でも決まるというコンセプトのブランドで、下北沢の古着屋でたまたま見つけたコーデュロイ地のパンツが最高に格好良く、買って以降ずっと気に入って履いているので勇気を出して直営店に行ってみた。金さえあれば試着した二本とも持って帰りたかった。隣の眼鏡屋で気になるサングラスをかけてみる。六角形のレンズの形と理想的なハーフリムがこれまた購買欲をそそった。もとのイメージはIVのドックなので茶色がかったレンズを考えていたが、かけてみると自分にはグレーが似合うということがわかった。場の力に当てられて舞い上がっていただけの気もするし、何より値段が値段なのでもちろん即決などできず、力なく「一旦持ち帰ります」と店員に述べて店をあとにした。

NEATというブランド。この後、別の機会にここのパンツを衝動買いする。格好いいが難しい色を買ってしまい、これまでのところ全然着られていない。いつか履くぞとスタンバイの気分が続いているので、それはそれで甲斐がないとは一概に言えないが。

どういう思考回路か上記の腹いせに髪の毛を金色にした。オーダーがうまくいき前回の金髪よりも明るい金になったので達成感がある。達成といってもイスの上に座ってされるがままになったり一定時間を待ち呆けたりしただけなのだが。金髪にすると手軽に気分が変わって良いという知見をほとんど前回感じたままに更新することができた。金髪にするのは、黒髪に戻すときにもまた気分が変わるので、二度おいしい。キューティクルを気にしない人にはおすすめのライフハックだ。自分は人工でないパーマがかかっている髪質なのでキューティクルなど始めから気にしない。

調べて吉祥寺のお店に行った。金髪にするというのは、髪型に関してこだわりがない(しっくりくる髪型を見つけられていない)自分にとってはとてもラクでしかも気分転換にかなり効果のある変更なので今後も折を見てやっていきたい。とは思うものの、最初にやったときの爽快感は目減りしていく気がするし、頃合いを見てやるというのが大事になってくる。

久しぶりにスタバに来てトーマス・ベルンハルト『破滅者』の続きを読む。真面目な小説なんだろうと思うけど、3分の1できたところの印象では、真剣で殺伐としすぎておりイマイチ乗れない。田舎暮らしは馬鹿になるという記述はあからさまで良かった。逆に人生なんて最低だと述懐するところなどは安易でつまらない、と私は思った。

トーマス・ベルンハルトはこのとき気分じゃなかった。ただしそんな気分は二度とやってこない気もする。

夜、日本酒のワンコインバーで飲む。つねに好きなもののランキングを更新していったほうがいいのではないかというような話をする。かつての活き活きした感受性を硬直した化石のように取り扱うのは、それ自体も趣味嗜好の領域であるとはいえ、倒錯的なスタンスであるとの認識でいたほうが後々そんなつもりじゃなかったという事態を避けられるのではないか。「俺はこれでいく」とドグマ的決め打ちをして逃げ切るにしても道のりはまだまだあるし途中で息切れを起こすのは火を見るより明らかだ。遅れて気づいたとき、何かを発掘するための気力が残っていない可能性は高い。それで言うとすでに手遅れの可能性さえある。もう終了でいいですと思っている場合、諦めたらそこで試合終了ですよといっても決め台詞にならない。北斗神拳の達人が言うあの台詞のほうが状況に適合する。

昔好きだったものが今はもう好きじゃないと正直に言うことは、好きなものを見つけていくために必要な手続きなのではないかというのがここでの主張だった。あとは、好きさの度合い・好きという感情の大きさが往時より低減していることを認めざるを得ないということ。それから、今の感情エネルギーを使って好きになれるものこそ今の自分にとって好きなものなんだと認めるほうが真っ当なのではないか。真っ当である必要もないけど、マストではないからこそそこを目指すという目も出てくるのではないか、ということも言いたかったのだと思う。わりと攻撃的な言い方だが。

物語のように

 物語のように


「物語のように」のあとに続く言葉が思いつかない。「物語のように」というのを「物語的に」ととるなら、本来物語に属さないものを物語的な見方で見てみるという意味になる。だが、物語に属さないものは存在しない。そして、存在しないものを言葉で言い表すことはできない。私を介して言葉を扱うと、どの言葉も物語に属することになるからだ。

以上のことは原理原則だが、原理原則から水準を落としたうえで、物語に属さないものとは何か考えると、「ニュース」や「金融情報」などが当てはまるだろうか。しかし、そういったところにも物語的なものの見方は浸透していて、日常の気分から切り離すのは困難である。ニュースや金融情報に左右される私に直面しないまでも、それに左右される私を想像してしまうことは避けようがない。それでも強いてその線で物語外のものを追い求めると「数字」や「データの羅列」というところまで行く。たしかにニュースや金融情報から物語的な臭みを脱臭してデータや数字に近づけることはできるのだろうし、職業としてそれらを取り扱う人たちが価値提供するのはそういった漂白済みの情報である。しかし、それは手段であって目的ではない。情報を一旦バラにする目的は、データを編成しなおしてべつの見方を提供することである。

しかし、それがうまく成されるところにもまた物語が忍び込む。ある情報が上手にスムーズに伝達されるというところにべつの物語的な要素が成立しないではいられない。数字を見て判断するという行為には卓越した部分が見られ、卓越した部分には物語が読み取られることになる。ニュースや金融情報をあえてデータとして扱うことをせずに、その後ろにいるひとりの人間のことを想像するなら、それも物語ということになる。いずれにせよ、いついかなる時でもどんな場所においても、言葉がイメージに結びつくとき、発火する何かがあるとすればそれは物語の範疇であってその外にあるとは言えない。そして、物語の外にあるものでなければ「物語のように」のあとに続けないという決まりがあれば、あとに続く言葉は何もないはずだ。すべてが物語であるとするなら「物語のように」という形容表現が成立する余地はない。

物語のうちにあって、あえて「物語のように」というのは、そこにある物語要素を強調するレトリックであり、装飾である。言ってみれば「物語のように」というのはレトリックでしかあり得ない。そもそも物語そのものにしてからがレトリックでしかあり得ないともいえる。イメージの効果的な伝達を目的と考えれば、その手段としてレトリックを弄することにも理はある。

自然発生的に湧き上がる物語性を極力排除して事に当たるというのは技術の要ることであるし、それによって得られる知見は無視できない。また物語というのはその高低を度外視すればありふれていて珍しくない。しかも個人に浸透して当人のものの見方に相当の影響を与える。むしろ彼のものの見方そのものを彼の物語と見なすことさえできる。彼個人の物語が彼個人の内部にだけある場合には問題は発生しづらい。あるイメージ(の制作)は、制作者によって間断なく修正することが可能で、しかも意識の上に載せないでも、外部からの影響で勝手に変更されることもある。考えていることを形にする習慣を持たない人は、柔軟に思考を変化させ、しかもその変化に自分自身気がつかないでいるということもざらである。彼は考えていないわけではない。社会が考えるように考えているのである。このように述べるとき、「考えている」の意味を問おうとするのは無益である。「社会」の適用範囲のほうを考えなければならない。彼から見えない場所は「社会」になりえない。彼にとって見えるところが社会であって、逆に見えないところは彼以外からどれだけ価値があると評価されようが社会にはならないということが問題にされるべきなのだ。もし何らかの形で彼の内部から彼の物語が漏出するようなことがあれば、それは評価の対象になりうる。イメージから物語への昇格を果たしたといえる。

物語の高低というのは何をもって計れるかといえば、イメージ伝達の効果によってである。レトリックにすぎないという批判が暗に示そうとしているのは、その言表のイメージ伝達効率の低さであると考えられる。装飾的で伝えるところが少ないと言いたいのである。この言い方では装飾的であることと伝えるところが少ないことが不可分であるような印象を与えるが、それも企図しないわけではないだろう。もっと簡潔にまとめろという要求も含意していると考えて差し支えない。受信側からすれば当然の要求かもしれないが、発信内容によってはこれは無視してもかまわない。受信側の立場を無視すれば、イメージ伝達効率は第二義的なものにすぎない。イメージと物語は別物であり、物語に対するイメージの正誤表は、まずは彼自身の内部にしか存在しないからだ。伝わるように伝えようとした結果、正誤表から逸脱した場合、それを保証してくれるものは存在しない。イメージとは、必ずしも物語のように伝達しなければならないわけのものではない。こう考えたとき「物語のように」という形容がつながっていく先があきらかになる。物語未満・物語以前のイメージが、べつの内部に直接もたらされ、そのまま物語以後のイメージになったとするなら、それは「物語のように」伝達されたと考えてまさか不都合はあるまい。


坂本慎太郎の音楽アルバム『物語のように』を聞くと、言葉が流れていく不思議を体験できる。

私は歌を聞くとき、一も二もなく、とにかく歌詞に注目する。歌手が何と言っているのかが気にかかって鳴っている楽器のボリュームを(脳内で)落として声にばかり注意を向けてしまう。また、どんな言葉が歌い上げられているかで楽曲を評価してはばからないうえ、演奏の巧拙などはまったくわからないまま平気で音楽を聞いている。

裏を返せば、歌曲の評価軸は歌詞一本にあるということで、音楽に関する趣味の反映はまったく言葉のうちにある。坂本慎太郎の音楽を愛好するのも、彼の言葉遣いに依るところが大きい。それでも、はじめて『物語のように』を聞いたとき、言葉がなめらかに入ってきて、聞き終わってすぐだったのにもかかわらず何と歌っているのか思い出せなかった。もう一度聞こうと思って同じ曲を再生したが、まるで同じことが繰り返された。歌詞の「物語のように」のあとに続く言葉が思い出せないのである。音楽を聞くことの大部分が歌詞にある身からすれば、これでは何も聞いていなかったのと同じことになるし、一回目はともかく、二回目は歌詞に注意して聞こうと思ったのにもかかわらず、歌詞ははっきり聞こえていてなおかつそれを覚えていられなかった。

これを破滅的な記憶力の低下だとは見なさずに、坂本慎太郎の奥義おそるべしと外因に帰責するのは、われながら便利な回路を持っているものだと感心させられるが、この不思議な感覚は、『ナマで踊ろう』『幽霊の気分で』『できれば愛を』でも見られなかったことで、今回の『物語のように』との接触には動揺をともなった新たな感動があった。ある意味これが「音楽を聞く」の最初だったかもしれない。


20220701

その悲しみと喜びがどこにもたどり着かないとしても

フィリップ・シーモア・ホフマンがもう死んでいてこの世にはいないという事実を、ふとしたときに思い出して悲しくなる。2014年2月以降、ずっと悲しいし、その悲しみが意味のないものだと思うと虚しくもある。意味のある/意味のない悲しみというのは、悲しみの側から見ればそれこそナンセンスな区分なのだが、一方で、意味の側から見れば厳然として存在する区分けだ。だからフィリップ・シーモア・ホフマンのことを思い出して悲しくなるときは大体いつも虚しくなって終わる。実際に会ったわけでもない人物の不在を悲しむのはおかしい。それに、もし彼が死んでいなかったなら彼のことを思い出す機会はもっと少なかっただろうというのは容易に想像できることだからやはり身勝手な悲しみだと思う。悲しむべき根拠に欠ける、いたずらに感傷に浸りたいがための悲しみではないかと、ちょっと思ってしまうのだ。少なくとも誰かに訴えていいような悲しみではない、黙って悲しんでいればそれでいいと。

悲しいとき、自分より悲しい人がいると思うと、自分の悲しみを開け広げにしないで控えていようとする意識が働く。そしてすぐにそういうのは本質的ではないと感じるから虚しくなるのだ。それでも全部無視して言ってしまえば、悲しいものはやっぱり悲しい。もっといろんな作品が見られたはずだったという可能性が閉ざされた悔しさもある、振り返るための過去が打ち止めになってしまったという無念さもある。でも違う。近いところからそれを表現しようとするとかならず、たちまちのうちにでも違うへと至る。どんな形でもいいから悲しみを表現しないとやりきれないのに、でも違うに遮られて表現できないから鬱屈する。鬱屈に耐えかねて穴をあけるとそこから隙間風が入り込んで虚しくなる。悲しくてつらくて苦しいと言いたいわけではない。意味ある悲しみを悲しみたいというのでもない。しいていえば、別の感情にすがたを借りて代わりにそれを迸らせてほしいという望みがある。どんな形でもいいからと思いながらどうしても形にこだわってしまう。わたしの悲しみはただ悲しいと言うだけでは不十分だ。まずは、楽しいことや嬉しいこと、驚いたことに「悲しみ」という名前を与えてみて、それが意外にもフィットする様をじっくり味わうことが必要だ。そうするのは悲しさの中心を直視できないからだが、直視できないからといって背を向けたいわけではない。だから中心ではなく周縁を見る。これは斜に構えたり目を背けたりしないために講じるべき、わたしにとって必要な手段だ。

フィリップ・シーモア・ホフマンが出ている映画を楽しんで見てきた身には彼が赤の他人だとはどうしても思えない。画面に映し出される彼の困惑した表情が笑顔のような動き方をするのを見て、暗闇の中でミラーニューロンの実在を感じさせられたのは一度や二度のことではない。

映画を見に行くとき、できるかぎり前情報をシャットアウトして映画館の席に座ることを心がけている。だから『リコリス・ピザ』の主演のひとりクーパー・ホフマンが、あのフィリップ・シーモア・ホフマンの息子だということも、半年ぐらい前に予告を見て以来頭の中からほとんど抜けていた。しかし映画が始まるとすぐそのことを思い出す。ゲイリー役のクーパー・ホフマンには笑ってしまうほど父の面影があり、これが面影があるという言葉の意味だとまざまざと感じさせられた。それで映画を見ながらフィリップ・シーモア・ホフマンのことを思い出して悲しくなった。今まで思い出したなかでもとりわけ良い形で。

映画の内容は、私が思うラブコメディの理想といえるもので、『パンチドランク・ラブ』『崖の上のポニョ』に匹敵するか、それ以上の出来だった。『門』の宗助と御米のように、お互い同士しか存在しないから結びつくというのは、無人島での純愛のようなもので言ってしまえばシチュエーション依存の域をでない。ロマンティックラブは達成されるかもしれないが、いやしくもラブコメディという以上、それだけでは物足りない。『リコリス・ピザ』のアラナとゲイリーは、お互いにとってお互いしか存在しないわけではないからこそ、ときにお互いから離れる一歩が、そしてお互いに向かって走る一歩がよりいっそうドラマティックなものとなる。スクリーンに映るアラナを、あるいはゲイリーを見つめていて、今走ってほしいと思った瞬間に、カメラが右、あるいは左方向にふたりを追いかけるシーンに移っている。この胸のすくアクションはラブコメディではあまり見ない。

ふたりの動きを眺めていると、全体として、尺取虫のすすみ方を思い起こさせる。尺取虫は頭と尻がくっついては離れ、離れてはくっついてを繰り返しながらすすんでいく。彼らの運動も、頭と尻の役割を入れ替えながらではあるが、まったく同じである。それでも、クライマックスのシーンではくっつくスピードの早さについ笑ってしまいそうになる。同時に、眩しいほどの、感動を誘うなにかがある。

ふたりは若すぎるから、すぐまた同程度の速力でお互いから離れていくのだろう。そして今度という今度こそ、とうとう千切れて跡形もなくなってしまうかもしれない。そうなったら可笑しいし、ただ可笑しいだけではなく無意味な可笑しさがあると思うが、そうなったとしても全然何も気にしないでいられる。最終的に形をなすかどうかに左右されない可笑しさがあるというまさにそのことが、彼らにとっても私たちにとっても最良のことなんだと思えるからだ。それ以上を望むのは、この映画にかぎっていえば、むしろ何も望まないことに等しい。

20220628

美学について

美学ということばを使うとき、「〇〇しない美学」というフォーマットがよく見られる。

たとえば、美学を押し付けない美学ということも考えられる。すなわち、自分は自分の美学を守る。しかし、それを他人に押し付けない。なるほどこれはじゅうぶん美学的な美学であるといえるだろう。内容は措いてもフォーマットをきっちり守っているからだ。内容をみても、自分のことは自分でやるという考え方を他人にも適用しているところに一貫性があり、一定の美学的効果を挙げている。しいて難点を挙げるとすれば、ここに見られる個人主義的なスタンスはいかにも美学然としていて、陳腐であるとの誹りを免れ得ないかもしれない。その対向に位置する、

美学を押し付けるのを厭わない美学

こちらの方がまだしもまともな美学であるとの考え方もあるだろう。少なくとも、わざわざ文章にして伝えるだけの甲斐ある美学だと思われる。聞く方でそれが美学だと思っていないものを美学と命名する方が、よしそれに反対する立場であったにせよ、その人にとっても新種の美学としての意義があるからである。ただしこの美学は美学として認められれば最後、その性質故に素早く伝播していき早晩陳腐化する運命にある。ただまあ、そもそも認められない可能性が高い。大勢の人にとって上の文言は、まともな美学どころかまともな考えだと思われないだろうからだ。美学掲出の当事者以外は押し付けられた美学を美学だとは見なさないという問題もある。推奨される美学ならまだしも、押し付けられてしまえば最低限の内発性も失われてしまう。そこで、

内発性を持たない美学

といった美学を急ごしらえで仮設し、美学を押し付けるのを厭わない美学が押し付けられるのを待つことはできよう。が、待つために上記の美学を仮設することがすでに内発性を含んでしまうことから、美学が内側から破綻してしまう。つまり、

内発性を持たず、破綻を意に介さない美学

という美学を誕生させる必要がある。しかしこうなってくるとべつの問題が発生する。先の「美学を押し付けるのを厭わない美学」が、どう考えても当美学の格下になってしまうことだ。もちろん、内発性を持たず、破綻を意に介さない美学の方ではそんな上下の問題はもはや問題ですらないのだが、その問題ですらないというあり方、超然とした姿勢が「美学を押し付けるのを厭わない美学」を圧倒し、萎縮させてしまう。せっかく押し付けてもらえるように工夫したというのに、その工夫の結果、美学を押し付けるのを厭わない美学が自らの美学を押し付けるのを不可能に、美学を不能にしてしまったのであり、これは悲しむべき事態である。ために最初からやり直して簡単に、

美学を押し付けられるのを厭わない美学

と、相手と直接的に対となれる美学を作り上げてしまえばいい。美学を押し付けるのを厭わない美学にとっての美学を押し付けられるのを厭わない美学というのは、まさに魚にとっての水であって、これで万事うまくいく。

と、思うのは簡単だが、そう思い続けるのは簡単ではない。すこし考えればわかることだが、美学を押し付けるのを厭わない美学から見たときに、押し付けた美学を厭わず受け取ってくれるのは、それこそ”押し付ける”美学に反するように思われるからだ。反するとは思わず、満足して押し付けている気になれるタイプもいるのだろうから、すべての「美学を押し付けるのを厭わない美学」にとって満足できないとは言わないが、少なくとも一度でも美学の格上・格下を意識させられた美学掲出当事者にとっては、押し付けるときに多少とも手応えがなければ決して満足することはできない。

このようにして美学は内的に進化発展していく。美学を押し付けない美学ではこうした冒険が起こり得ないことひとつ取っても、美学を押し付けるのを厭わない美学のほうが美学に値すると私は考える。いや、美学の名に値しないからこそ、そこを起点にスタートを切れると思うとでも言えばいいか。とにかく、スタートを切りさえすればゴールに至るまでの全過程は美しくなる。転ばない美学よりも転ぶのを厭わない美学とでも言えばいいか。

日記26

昨日
ようやくping-tのピックアップ問題すべてを処理する。とはいえ、まだ正答率が7割程度、ピックアップ問題以外には手つかずの状況なのでもう少し時間がかかりそう。

カルロ・ロヴェッリの『世界は関係でできている』を読み終わる。同じ著者の『時間は存在しない』の方がついていけた。2部までは面白かったが3部に入ってからついていけず。ある哲学の考え方(独我論)について「直感」に根ざしていて駄目だと書いてあったが、なぜ直感に根ざして考えることが駄目なのかについては納得できず。直感からスタートして理論を積み重ねるのは前提が間違っているから駄目(進展がのぞめない)、最初から考え直す必要があるというのは、古典物理学から量子論へのジャンプにおいて適用できたことで、あくまで一例でしかない。この本は量子論にいたる道筋と考え方のエッセンスを抽出し、瓶詰めにして輸出している。いろいろな物事について考えるにあたって「前提を疑う」回路を使う際、古典物理学→量子論の例を援用するのはたしかに有効だと思うが、それでも即全体に適用できるとするのには無理がある。「直感だから駄目だ」と言うのはいわば省略形だが、それが有効に機能する場面はそこまで多くないはずだ。「これは科学的知見だからOK、あれは直感だからNG」という判定が幅を利かせるようになるとその分だけ科学の進展を遅滞させる。そうした決定は科学と社会とのギャップを広げるようにも作用するからだ。科学の知見を持たないほとんどの人にとって「理解は出来ないけれど正しいに違いない」というスタンスは便宜でもあり欠かせないものでもあるが、そうやって獲得された権威は科学自身のためにならない。資金・実行力を得れば得るだけ、社会からみて目に見える結果が求められるようになる。そうなったとき、社会の視力が維持されていることを望まなければならないのに、それが十分でないとすれば、新しい知見やひょんなところからの突破口(セレンディピティ)が得られなくなることに繋がっていくだろう。セレンディピティを期待するためにも、個々の研究は実効力の説明をある程度免除されるべきだ。そのため、科学自身にとっても社会の中に科学のマインドを持つ人を増やすことが重要になる。「これは科学的知見だからOK、あれは直感だからNG」という判定そのものはただの判定であってそれだけでは足りない。その意味でも、この本には科学のマインドに触れる機会を提供する役割があり、その役割を果たしている。紙幅の制限等もあり完全にというわけにはいかないが、そもそも「科学のマインド」はもう少し複雑であって、1,2冊の本で触れるのに完全というのはあり得ないのだろう。
社会と科学研究との進み方にはギャップがあり、個人個人のあいだにも進度の差があることを考えると、社会設計において遅い方に合わせて安全を確保するというのは理にかなっている。ただ、個人が社会のスピードに合わせる必要は全く無いと私は思う。早すぎると攻撃を受けるのはどの時代でも変わらないのだろうが、今やその攻撃も自由概念が緩衝材として機能する以上昔ほど苛烈ではないだろう。攻撃を厭うのであればスピードを緩める選択もある。
個人は社会がよしとする考え方よりも前に出ることができる。社会がそれを前だと認めるかどうかはまた別の話だが。また、科学研究は個人にとって方向を指し示す針にはなっても、攻撃を受ける盾や鎧にはならないものと思う。それでは彼自身にとって十分なスピードが出ないと思うからだ。もっとも、社会がよしとする範囲にきちんと収まろうとするのであればその限りではない。

図書館で伴名練『なめらかな世界と、その敵』を手に取り表題作を読む。伴名練が編んだSFアンソロジーに手を付けるかどうか悩んだ末、伴名練の代表作を読んで決めようと考えてのことだったが、このやり方は成功した。すでに消化しきれないほどの読書リストがあるのだが、それが消化できたあとでも問題ないと判断できた。SFにせよ何にせよ「ジャンル読み」はやりたくないのでその方針にも沿う。
エイモス・チュツオーラ『やし酒のみ』を3分の2のところまで読む。面白いとは思うのだが、世界ウルルン滞在記を見て感じたようなあまり好きではない種類の面白さで、「アフリカ文学の最高傑作(帯文にそう書いてあった)」だとはとても思えない。海外の人が『痴人の愛』『豊饒の海』をさしおいて『源氏物語』を日本文学の最高傑作として挙げているのを見るような違和感がある(三作とも読んでいない上、谷崎も三島も好きではないのでいい加減もいい加減だが)。

20220620

日記25

昨日

『ゲルハルト・リヒター 絵画論/写真論』を寝る前に読んでいたら朝になってしまい結局寝たのが6時になったせいで起床が12時になる。自動起動するルンバに起こされた。

我が家ではルンバを平日13時に自動起動するようセットしている。これで床に邪魔な荷物を置いていなければ、外出しているあいだにルンバが勝手に部屋を綺麗に掃除してくれるという寸法だ。床に邪魔な荷物を置いていた場合、ルンバはそれを巻き込み、ずたずたに引き裂きたいという凶暴な願望を半ばにして床の途中でくたばっていることになる。彼にiPhoneの充電ケーブルを引き千切られるというのはルンバあるあるだろう。

じつは最近ルンバの稼働率は低い。部屋に何かしらルンバの掃除を邪魔する布(おもに衣類)が転がっているからだ。かわいそうなルンバ。小汚くなっていく部屋の床。

セブンで400gヨーグルトと冷凍ブルーベリーを買ってブルーベリーヨーグルトにして食べる。

何かを知って感動を覚えるとすぐそれをリピートする。2,3回リピートしてそのあいだにそれを継続する必然性を見つけられなかったら飽きて止めてしまう。

ハマっているというのを理由にしていちいち判断しなくていい時期があるとその分ラクになるだけの話ではないのか。だけではないにせよ、好きなものに手を出すというのを度外視すれば潜在的な理由として第一位だ。

鎌倉殿の13人を見る。OPで巴御前が出てくることに気がつき興奮したが、実際良い活躍をした。何がどういう結果を招くかわからないというのはあるにしても、やっぱりその時々の良いはある。

その時々の良いというのは巴御前が義仲から遠く引き離されて和田へ行くことになる顛末のことだ。義仲といるときにも良かったし、和田といるときも良かった。反発するにせよ恭順するにせよ、その時々に決めた方向に一心に進む性質がそれを可能にするということだと思う。不満を抱えながらということをできない一本気な性格が幸いしているのだろう。それが幸いするということ自体、当時の社会ではとくに、幸運なことだと思うが、気の強さを押して良い目が出るというのは見ていて清々する。

十三人ももう二年前になるのか。いろいろとテレビドラマがやっていて話題になる。いちいち追いかけていられないが、追いかけていたとすればきりがないだろうと思う。それでいいならこれ以上はないという理想的環境だ。

久しぶりに酒を飲む。一週間以上飲まないで過ごしたのは何年ぶりかわからない。東京へ来てからはそんな一週間はなかったと思うので少なくとも5年ぶりにはなる。昔ほど酒を必要とする場面はないなんてことはすこし考えればわかるのだけど習慣でほとんど毎日ペースで飲み続けていた。昔は緩める必要が十分あったと思うが、今はもうその必要はなくなっていると思う

飲酒習慣をやめるというのは難しい気がする。生活の実験と称して何でもやってみるというスタンスはあるけれど、こればっかりはやれない、やってみようとも思えない。

酒を飲まない日と飲む日の割合は仕事のない日とある日の割合と比べても遜色ない。少なくとも5/7は飲んでいる。五月七日は飲んでいる、ではない。

ついでにカフェインも止めてみている。恐れていた好転反応は結局そこまでひどいものにはならず、想像よりずっと穏当にカフェインを抜くことができた(バファリンAを合計で6錠しか飲んでいない)。ヤクルト1000を飲んだ日に深い睡眠の時間が増えているのと同じかそれ以上に深い睡眠の時間が増えている。頭を働かせる効果について机に向かう時間はガムを噛むことにした。

一方、カフェイン断ちについては一年経った今でも継続している。完全なカフェイン断ちから、今は緩やかなカフェインの摂取というところに落ち着いているが、昔は24時間以上カフェインが切れると頭痛がしていたことを考えると、いつ止めても問題ない状況にあるので、これはカフェイン断ちの成功と言っても良いだろう。いつかアルコールも止められる日が来るだろうか。

できるだけ抑えようと思っているが、やはり慣れと出勤習慣ですこしずつカフェイン摂取量が増えてきている。今は午後の紅茶無糖とスタバのショートドリップ相当のカフェイン量で安定している。職場でシャッキリするのと、スタバにきてMACを開いたり本を開いてシャッキリするのが必要なので妥当なところだと思っている。

20220615

日記24

久しぶり日記になった。ここ最近はping-tの問題を解いてばかりいた。

久しぶり日記というのは久しぶりに書く日記のこと。ping-tとはネットワークなどIT知識の問題を公開しているページ(一部有料)

久しぶり日記(旧だから結局)

ping-t


昨日

先週木曜に行ったゲルハルト・リヒター展でゲルハルト・リヒターに興味を持ち、すぐに図書館で予約して待ち、やっと借りられた『ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』を読む。対談集というかインタビュー集の形式だが、そこでかけられるすべての質問に対してはっきり答えていて、質問に対する答えとして不明瞭なところや、逆に質問意図を汲み取りすぎて迎合的な答えになっているところが一切ない。


”僕の作品にはトリックもシニズムも小手先の皮肉もない。反対に、僕はほとんど素人のように、なんにでもストレートにとりくみすぎていて、考えや行動が全部あけすけになってしまっているほどだ。だから僕には、具象絵画と抽象絵画のあいだの矛盾というのが、なんのことかよくわからない。”56p


”―写真家は何分の一秒しか必要としません。あなたは何時間もかけて、これらのディテールをすべて制作しなければならない。

 でもそれが作業というものですからね。つまり、黙って眺めていないで、なにかすることができるということです。それがすべてを耐えやすくしてくれます。”88p


上のような言葉を聞けば、ゲルハルト・リヒターが何よりもまず制作者だということが明らかになる。当然、展示を見に行って絵を間近で見れば、もっと直接的にそれがはっきりするのだが、自分が制作者であって、つねに制作をしているということからくる安心は、外から見ると僧侶が信仰に生きているのと同じに見える。ひとりひとりの僧侶がどれだけ信仰を篤く持っているかというのは目に見えないのと同じで、ひとりひとりの画家がどれだけ制作にとりくんでいるかも見えない。ただし、制作された作品は目で見ることができ、目で見られることを条件に作られている。

自分の目で見て、それにもとづいてなにかするというのが仕事だとすれば、見たいものを見てそれにもとづいてなにかするというのがやりたい仕事ということか。

成功した画家を見ろ。彼らはお金があるからもう描かないとは言わない。成功していない画家を見ろ。彼らはお金がないからもう描けないとは言わない。だから結局、ただ単にもう描けなくなった元・画家と、今まさに描いている画家の二種類がいるのみだ。彼らが一日のうち作品制作に費やせる時間は最長で15時間だ。睡眠時間以外の休憩もじっさいには必要だろうから、どれだけ長くても12時間が限界だろうと思う。それ以上はクリエイティビティを発揮できる時間の使い方にはならない。自分が今使える時間は一日4時間だ。これだと巨人のような仕事をこなした人と比べて3分の1の進みしか望めない。が、これまでの受信的な生活と比べると、今は彼らの3分の1ほども進めるための時間があるのかと驚く。冷静に考えると仕事をしているせいで時間がないというのはもはや言い訳にならない。


お好み焼きが食べたくなったので、スーパーに行って薄力粉、ソース、サラダ油、鶏卵、キャベツを買ってきて、お好み焼きを焼き、サッカーを見ながら食べた。結果は0−3の敗戦。どうやら日本代表チームは雨に弱いようだ。あと、チームワーク重視のチームがチーム内競争を煽られると難しいんだと思う。相手からすると軸が見えやすいし、軸を押さえればまとまりは失われるというのがそのとおりになった。

お好み焼きにもうまくできたお好み焼きとうまくできなかったお好み焼きがある。なぜかそのことを書いていないが、この日のお好み焼きは完全に失敗のお好み焼きだった。自分は料理などでも、できるかぎり一回で全部やろうと考える考え方の癖があってホットプレートに大量のお好みを投入しすぎたせいで全体に火が通らなかったのが失敗の主な原因だった。とくに中まで火が通らなかったところが多量にできたおかげで、生っぽくてたんに美味しくないだけではなく食べたら駄目な、お好み生焼ができてしまった。サッカー日本代表にダメ出ししている場合じゃない。そのときはお好み焼きを失敗させたことがクリティカルにすぎてむしろそういう場合だったのかもしれないが。

ゲルハルト・リヒターの絵のことは今も覚えている。制作過程も含めて、一見すると何かに近づいていこうとする意図を感じない絵だったが、それでも描いているあいだは作品は感性に向かっているということなのだろう。大量の反故ができて然るべき制作方法だと思うが、完成品の割合はどの程度になるのだろうか。とくにアブストラクトペインティングについて気になるが、中断せずにずっと描き続けるというアプローチをとるから意外と反故はなかったりするんだろうか。油絵の具のことをよく知らないからこういう疑問が出るのかと思って調べてみたら、アブストラクトペインティングはスキージで絵の具を塗ったり不要な箇所をナイフで削るという記述が見つかった。削っては付け足して、付け足しては削ってという手仕事を繰り返しているようで、その繰り返しの余地はほぼ無限にありそうだから、刷毛を投げないかぎりは反故になるということもなさそうだ。コンピュータを使えば簡単にリセットできるところを、実際のキャンバスやアクリル板を使うとそう簡単にリセットできないというところにも制作物としての特徴が表れそうだ。すごくエレメンタルな話だろうけど。


https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/21240

美術手帖のリヒター紹介記事

日記728

光る路 2026/03/03 昨日 3561 スタバを出てから氷結グレープフルーツを買って雨宿りがてら駅前で飲む。家人にケーキと、自分に晩御飯を買って帰る。ダイエーが店名をイオンフードスタイルに変更したとかいう話だった。ノーノーガールズの7話を見る。オーデ...