20230303
下北沢演劇祭の演劇に出演した2
20230302
下北沢演劇祭の演劇に出演した
20230226
日記59
昨日
あれからもう一年が経ってしまった。
前日の公演(二日目)で、思いついたことはやっておこうと、失敗しないまま終わるのはやめようと思い、思い切ってやってみたらあんまりよくない結果になった。大失敗とかではなく、なんともキレの悪い失敗になった。失敗してもいいというのはたしかにそうなんだけど、それを想定したり組み込もうとしても想像を超えるものにはならないし、ただただ緊張を増すだけのことで、やると決めたことをやらないととそれだけを考えて全然周囲を見れないし、がちがちに固くなって良いことがなかった。しいていえばそのことを知れたのが唯一よかった点だったけど、そんなのはやらんでもわかりそうなことだ。
この日の公演(三日目)は、自分で思いつく仕掛けとかはやらないことにして、演出が指摘してくれたもっと熱量高くというのを心に留めて最初から突っ走った。結果、自分のなかではこれまでで一番よくできたと思う。流れに身を任せた感があった。普段ならそういうのには抵抗があるのだけど、皆で作り上げた流れだったからというのとむなしい抵抗は前日に済ませたのとで、自然に乗ることができたような気がする。
公演後、演劇している友達が見に来てくれていたので挨拶する。こっちからありがとうございましたと言えるのはとても気分が良くて嬉しかった。一回り以上年下になる年若い友人なのだけど、あまり遊んだことがない。もっと遊びたいという気持ちをこめて友達と書いたのだがこれ以降一度も遊んでいない。一度ドラムを叩いているのを見に行かせてもらった。
その足で六本木のギャラリー兼カフェまで個展を見に行く。NYの街並みというか空気感をクラフトした作品を見る。前回の個展でも思ったことだけど、アメリカの都会感覚を大事にしているというかそれで遊ぼうとしている感じがあって肌が合いそうな印象を受けた。六本木一丁目の駅まで歩き、四ツ谷に向かう。六本木一丁目駅に行ったのはこれが初めてだった。
この個展を出している人とも遊びたいと思いつつ、自分からは声をかけられず、声をかけてもらうのを待っているだけという始末。もっと人に向かっていく気持ちを全面に出さないと。口で言うのはすごく簡単だ。
四ツ谷では荒木町のバーで韓国のうどんを食べるイベントが開催されていたのでそこで暖をとる。その後友人宅でちょっと飲んで帰宅。ジョージ・クルーニーは相手の目を見て乾杯するというアドヴァイスを得る。帰り道に小雪が落ちてきたので、少しだけマッチを売りながら新宿通りを歩く。
プランクチャレンジは14日目で、100秒×2になっている。ほんとうに限界ぎりぎりだった。
なんだかんだ一年前は身体を動かしている。今ではたまに思いついたときにラジオ体操をしている程度。お腹が丸くなるのも道理だ。
20230222
日記58
20230211
日記57
20230210
『俺の家の話』を8話まで見た
宮藤官九郎を見たことがある。しかも何らかの仕事をしている最中の宮藤官九郎を。
どこでというのはプライベートに関わることだから差し控えるが、昔住んでいた地域のシアトル系カフェで見かけた。彼自身はあまり生気があるタイプには見えなかったけれど、彼のMacbookはゴテゴテとステッカーのたぐいが貼りたくられており、そのせいでなんとなく能弁なイメージを、もっと消極的にいうと、決して暗くないという印象を受けた。
そのとき、私はきれいなMacbookを使って、日記か何かを書いていた。宮藤のほうが先に座っていて、私はあとから席に座った。ひとしきりMacbookの画面に集中していると、顔を上げたときには姿が見えなくなっていた。しばらくすると宮藤が座っていた席には高校生ぐらいの女が座って勉強か何かを始めた。
あのとき宮藤が書いていた何かは何だったんだろう。当たり前といえば当たり前だが、何か特別なことをしているという感じはまるでなかった。たんにサボっていただけかもしれないけど、仕事をしていたのだとしても、それは日常のなかの1ページで、取るに足らないことだとは言わないまでも、めずらしいことでもなんでもない、という感じがした。女子高校生が勉強をしている時間よりもずっと長い時間、カフェだったりなんだったりに座って何かをしてきたのだろうし、していくのだろうと思うと、女子高校生がやっている勉強のほうが特別感があるとさえいえる。女子高校生がこれからどんな方向へ進むのかは見当もつかないことだが、前後3年間が人生でもっとも長く机に向かう、ある特別な時期になるというのは、結構な確率のことのように思われる。
そういうことを考えていると、とにかく「机の前に座った時間」が物を言うことになるのは間違いないと思う。あの能弁な感じというのは、Macbookの背中一面に貼られた無数のステッカーにではなく、彼自身の醸す雰囲気に依るところが大きかったのだ。
それに軽い見かけに反して厚みがあった。地面と足の裏がしっかり繋がっているという感じがした。誰しも地面に足をついているんだけど、単なるその事実が、事実そうだということを超えて、しっかり目に見えるというところに特別な何かがある。そういう感じがあった。カフェという場でひとりで過ごすのだから一言も喋らないのは当たり前なのだけど、そして実際黙って座っていて、黙っていつの間にか消えたのだけど、宮藤は黙っていてもうるさかった。しかも、いなくなってもしばらくうるさかった。今も、こうして思い出すとうるさい。
見るべきものを見て、やるべきことをやっている人をじかに見ると、うるさいという感情が湧き起こるということを知った。
宮藤官九郎脚本のドラマ『俺の家の話』を見ていると、ドラマから逆算してそのことがわかる。ドラマもまたうるさいからだ。
見るべきものを見ている人というのは決して見逃さない。話のなかで大きな流れを作っても、それに流されない。大声をあげる魅力的なキャラクターを活き活きと動かす一方で、小声で何かそれに棹さすようなことを言わせるのを忘れない。目がくらむような光のしたにあるものをしっかり見ているからこそ、そこに気づいて、何ごとかをぼそっと言ってしまうのであって、光の眩しさに恍惚となるような気遣いはない。
たとえば、ドラマのなかで登場人物がとる選択に違和感が浮かんだとしても、大きな流れに沿ってそうしたわけではなく、彼の理由があってそうしているということは疑えない。それが見ている自分自身のやり方とは相容れないと思ったとしても、所詮、自分の話ではなく『俺(彼)の家の話』にすぎないと思える。人は人、俺は俺という前提がタイトルに組み込まれているし、全編を通してそのことをしつこいくらい念押ししてくる。
『俺の家の話』『あまちゃん』『いだてん』などのドラマを通して、その作者は大きな流れに身を委ねたり、大きな物語に組み込まれたりということをしていないと信じられる。劇中で葛藤する登場人物は、どこまでいっても一対一で向き合える対等な相手という感じがする。違いがあるとすれば、たとえば『俺の家の話』では物心つかないうちから舞台のうえに立つ人間を主人公にしているというところにあり、それを理由として、日常で見ないほど、そして画面越しでも受け止めきれないほど、圧倒的な花があるぐらいのものだ。
うるさいということでいうと、大きな声はうるさくない。なぜならそれはミュートしてしまいやすいからだ。どれだけ大きな音で大きなことを言おうと、一度ミュートすることに決めたら、以降は全然うるさくない。
それよりもうるさいのは、「こいつは見ている」という感覚のほうだ。それに対してミュートは無意味だ。見るべきものを見ているとこっちで知ってしまっている以上、そいつのことはいつまでも気になるし、向こうは何をしないでも(こちらのほうを全然見ていないとしても)こっちで勝手に、しかも持続的にうるさい。
とはいえ大きな流れというのは、現場においてつよい存在感と影響力をもっており、それに注意を向けているうちに小さい声にまで気が回らないということはよく起こる。有り体にいえば、小さい声というのはそれが小さい声だからという理由で’その場では’無視してしまいやすい。
それでも心のどこかに引っかかっていつまでも忘れられず気にかかるのは、誰かがぼそっと言った何かの方だろう。小さい声の厄介なところは、よほど気を張っていないと、それに反論したり反応する機会を逸してしまいやすいところだ。宮藤官九郎の作るドラマはそういう小声の量が他と比較してもかなり多めで、それをひとつも見逃すまいと、見る方で目を皿のようにするから見ていて面白い。能動的に見ざるを得ないように設計されている。
そして静かでありながら同時に能弁であるような「特殊な能弁さ」は、本人の佇まいや醸し出す雰囲気のほうにも浸潤しているよう見受けられた。あの日見たあまり生気があるとはいえない男が本当に本人だったとしてだが。
20230206
『イニシェリン島の精霊』を見た
私は私の友人に何を望むか
私が私の友人に望むことというのはそれほど多くないが、文学に親しみのある人間ではあってほしい。ドストエフスキーやカフカはもちろん、できればアメリカ文学のように周縁に位置するような文学作品も抑えていてもらいたい。
当然本の虫というのでは駄目で、スポーツをやるのも見るのも好きであってほしい。サッカー好きだというのは簡単な条件だと思うが、それだけでは不足で、応援しているチームが国内外にひとつずつあることも欠かせない。
それから、お笑いが好きでないと始まらない。笑うのが好きという牧歌的なタイプでもかまわないが、大勢の人が白けてしまうようなシチュエーションで、場にそぐわない爆笑を挙げてしまうような攻撃的な笑い方をする一面は、それを表に出すかどうかにかかわらず、必ず持っていてほしい。
この条件にあてはまらない他人がいくら私に話しかけてきたところで、私は彼のことを友人とは認めない。友人以外の他人に冷淡な態度で接するような底の浅い行動をとることはできないので、暇がゆるすかぎり、ナイスに振る舞うのは当然のことだが、それは彼のことを私の友人だと認めての行動ではない。いわば精神的な習慣が、私にその場にそぐうような適当な振る舞いをさせるだけのことである。相手の話に笑いもするし、頭を使って質問に答えもしようが、それは親愛的な情のゆえというよりは親切心のなせるわざである。
とまあ、こんなことを言ってはいられない。昔、これと近いようなことを考えたことはあったが、それでもごく短い期間のことにすぎないし、そういうようなことを言ったことだってもしかするとあったかもしれないが(私はどちらかといえば軽薄な人間なので)、少なくともそのようなことを言い続けてはいられなかった。もっと突き詰めた人間になれればと思い続けているような気はするけれど、むしろ習慣のほうに飲み込まれて、あまり友人がどうとかいうことを考えないようになった。
それでも、私の人生には暇があまり残されていないということにふと思いが至り、その残り時間の少なさに鋭く胸を突かれるような羽目におちいるそんな日がきたとしたら、『イニシェリン島の精霊』の登場人物コルムのような動き方をするのではないかということを思わせた。その意味でこの映画にはリアリティがあった。パッと見の劇的な展開とは別のところで、浅ましい人間の、他人に多くを求めようとしてしまう弱さをストレートにえぐり出しており、私はそこにリアリティを感じた。
つまり、コルムに共感する人は少なくないのではないかという感じがして、その意味でリアリティがあった。荒唐無稽といえるほど美しい景色と、見事な役者の演技は、リアリティの向こう岸をそんなの関係ないと言わんばかりに突っ走っていったが、それらがあるひとつのものを形作り、指し示していた。そしてその先には、われわれ自身の浅ましいところがあって、それは無いものでもないから、私にリアリティとして感じとられたのだ。しかし、大体の場合に私がそう思うように「これは私のなかだけにあるものだ」とは思わなかった。私のなかにあるというよりも、誰かのなかにそれがあるんだろうなと感じられたことを指して、それをリアリティと感じとったのであって、普通の場合、つまり私のなかだけにあると思うときに感じるなにかのことを――いろいろな呼び方で呼んでみることはあれど――、私はリアリティとは呼ばない。自分ではなく、誰かのなかにあるという感じが、その不気味なイメージが、リアリティというあまりぞっとしない妙ちきりんな言葉と親和的であるように思われたのだ。これが嫌いなもの同士が仲良しだと感じられるパラノイアの典型例だったとしても、それを差し引いても親和的なところがあるように思われる。差し引けるのかどうかということは置いておいて、にはなるのだが。
リアリティがあり、はっきり面白いと感じたのだが、それでも映画に瑕疵がないとはいえない。たとえばコルムの動作には違和感がある。最初から最後までひとりの人間が演じたというように見えず、途中で人が変わったように見える。
どうしてもコルムの意図と動作にズレを感じる。結果的にそれしかないという羽目におちいることなしに、コルムが望んでいたものは得られないはずだと私には思われる。トレードオフのようにどちらかを選び取るというのは甘い罠にすぎないのではないか。
もちろん、本人にとってそのストーリーは心和むものであるということは疑いを入れないし、そうである以上、できることをやるべきだと思うからそれで良いと思うが、残りの四本をまとめていった時点で、私にとってはその生命が消えてただの役(しかも別人)としか見えなくなった。
結局、映画はこれが劇映画であるということを誇るかのようにことさら劇的に進行していき、赤いものをまき散らしたり突き上げたりしていったが、冒頭の30分で見せたリアリティの域にはどうやっても達しないまま、いわば尻すぼみに終わってしまった。ちょうど半ばあたり、上の道と下の道とで道別れとなるカットの美しいイメージを残して。
冒頭の問い「私は私の友人に何を望むか」について考えてみたが、気の利いた答えが浮かばない。
私にはそういうところがある。たんに答えが浮かばないときに「気の利いた答えが浮かばない」というように、一応浮かんではいるのだがということを匂わせる言い方をするところがある。私は私自身のそういうところを隠そうとしていないから、仲の良い友人はそのことを知っているはずだ。それに私には友人のことをことさら見ないようにするという癖もないから、仲の良い友人のことは、「そういうところがある」というようなところを何度も見ているし、知っている。
そして「知っていてくれている」というのが私が私の友人に望むことで、私の友人が私に望むことにちがいないと、だいたいの見当をつけている。まあそれだと知己ということになるんだけど……。それは言葉の持っているニュアンスのほうがわるいだけであって、知己というのは私にとって大事なことだ。
それでも友人のことを条件でみたり、こいつは俺の友人たる格があるかということを考えてしまう癖は抜けないし、これからも完全に抜けるということはないと思う。ただ、そうである以上、そこで使う基準を借り物で済ませるわけにはいかない。お金をもっているとか優しいとか余裕があるとか楽しいとか、もちろん全部重要なことだが、それらは自分自身の基準に照らして大事なことだとは思わない。
コルム基準にも共感できるところはある。もっとも共感したのは、その厳格さではなく柔軟さで、基準をそれまでのものから変更したところだ。指を落とさないまでもそういうことができるようでいたい。
日記728
光る路 2026/03/03 昨日 3561 スタバを出てから氷結グレープフルーツを買って雨宿りがてら駅前で飲む。家人にケーキと、自分に晩御飯を買って帰る。ダイエーが店名をイオンフードスタイルに変更したとかいう話だった。ノーノーガールズの7話を見る。オーデ...